往生
提供: 新纂浄土宗大辞典
目次
おうじょう/往生
現世での命終の後、他の世界に往き生まれること。通常は、極楽浄土または他の浄土に生を受けることをいう。この語は元来、他の世界に生まれることを指したが、浄土思想の発展に伴って穢土(娑婆)から仏の世界である浄土に往き生まれることを意味する語となった。したがって、往生とは単なる生まれ変わりをいうのではなく、生死解脱を意味する語である。
[経典に説かれる各種往生とその勝劣]
(1)〈極楽浄土への往生を説くもの〉『無量寿経』下には、「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜して、乃至一念、至心に回向して、かの国に生ぜんと願ずれば、すなわち往生を得て、不退転に住す」(聖典一・二四九/浄全一・一九)とあり、念仏衆生の往生とそれによって不退転位に入ることが説かれている。『阿弥陀経』には「もし善男子・善女人あって、阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持すること、もしは一日…もしは七日、一心不乱なれば、その人命終の時に臨んで、阿弥陀仏、諸もろの聖衆とともに、現にその前に在す。この人終わる時、心顚倒せず、すなわち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得」(聖典一・三一八~九/浄全一・五四)とあり、念仏衆生の命終に阿弥陀仏が来迎され、心乱れることなく極楽に往生できることが説かれている。『観経』には「三心を具する者は、必ずかの国に生ず」(聖典一・三〇六/浄全一・四六)とあり、至誠心・深心・回向発願心の三心を具足した者の往生が説かれている。また『法華経』第六随喜功徳品には「ここにおいて命終せば、すなわち安楽世界の阿弥陀仏の大菩薩衆に囲繞せられる住処に往きて、蓮華の中の宝座の上に生ず」([1]とあり浄土往生が説かれている。 (2)〈弥勒の兜率天への往生(上生)を説くもの〉『観弥勒菩薩上生兜率天経』には、「まさに念をかけ、仏の形像を念じ、弥勒の名を称すべし。かくのごとき等の輩、もし一念の頃に八戒斎を受け、もろもろの浄業を修し、弘誓の願を発さば、命終の後、譬えば壮士の臂を屈申する頃のごとく、すなわち兜率陀天に往生することを得」(正蔵一四・四二〇上)、さらには「もし弥勒菩薩摩訶薩の名を聞くを得る者あって、聞きおわりて歓喜恭敬礼拝せば、この人命終に弾指のあいだのごとくにすなわち往生を得」(正蔵一四・四二〇中)とあり、観想・称名・聞名等により弥勒の兜率天へ往生することが説かれている。 (3)〈十方の浄土への往生を説くもの〉『灌頂随願往生十方浄土経』には、十方浄土往生が示され、さらに「もし四衆男女、もし命いまだ終らず、もしは已に終れる者、われ今まさにもろもろの福業を修することを勧むるによって十方諸仏刹に生ずることを得べし」(正蔵二一・五二九下)と説き、もろもろの福業を修して十方の浄土に往生するとしている。
これらの浄土への往生について、道綽は『安楽集』第二大門において、兜率・十方浄土と西方浄土への往生について論じている。まず兜率と西方浄土往生については、①兜率天往生者は退転するのに対し、西方浄土往生者は不退転である、②兜率天での寿命は四千歳であるのに対し、西方浄土は無量である、③兜率天の水・鳥・樹林は雅な音を出すがそれらは快楽のものであって悟りの助けとはならないのに対し、西方浄土へ往生した者は不退転位を得ると共に寿命は阿弥陀仏と等しく無量であり、極楽浄土の水・鳥・樹林はみな説法し往生人を悟らせる、④西方浄土の音楽は、兜率天の音楽より勝れている、として西方浄土の優位性を示している。また、十方浄土と西方浄土については、①十方の浄土を願うことは対象が広く心が蒙昧としてしまうのに対し、西方浄土を願うことは対象が限定されるので心を専らにすることができる、②十方の浄土は往生しがたいのに対し、西方浄土は往生しやすい、としている。
法然は十方浄土往生や兜率往生と西方浄土往生について、末法に着目しながら論じている。『選択集』六では、末法時においては十方浄土往生の諸経が先に滅するのに対し、西方浄土往生の教えを説く『無量寿経』のみ留まることをもって、十方の浄土は機縁浅薄にして西方浄土は機縁深厚であるとし、末法時においては兜率上生の諸経は先に滅するのに対し、西方浄土への往生を説く『無量寿経』のみ留まることをもって、兜率は近いが縁が浅く、極楽は遠いが縁が深いと説示している。また『要義問答』には、「問う、十方に浄土多し、いずれをか欣いそうろうべき。兜率の往生を願う人も多くそうろう。いかが思い定めそうろうべき。答う、天台大師ののたまわく〈諸教に讃むるところ多く弥陀にあり。故に西方を以て一準とす〉と。また顕密の教法の中に専ら極楽を勧むる事称計すべからず。恵心の『往生要集』に十方に対して西方を勧め、兜率に対して多くの勝劣を立て、難易相違の証拠どもを引けり。尋ね御覧ぜさせたまえ。極楽この土に縁深し。弥陀は有縁の教主なり。宿因の故、本願の故、ただ西方を欣わせたまうべきとぞ覚えそうろう」(聖典四・三七九~八〇/昭法全六一六)とあり、十方浄土および兜率と比較して極楽浄土・阿弥陀仏は宿因と本願がある故に極楽往生を願うべきであると説示している。いずれにしても、十方浄土への往生は経説にあるものの、実際には広く信仰されたわけではなく、兜率往生は唯識思想が弥勒から始まるという伝承から唯識関係の祖師によって願生されたが、現在まで広く信仰が残っているのは極楽往生のみである。
[往生の定義]
法然は『往生要集釈』において「往生とは、此を捨てて彼に往き蓮華に化生するなり。草庵に眼を瞑ぐ間、蓮台に跏を結ぶの時なり。即ち聖衆の後に従い、菩薩衆の中にありて、一念の頃に西方極楽世界に往き生ずる。故に往生と言うなり」(昭法全一七)と述べている。聖光は『西宗要』において「往生とは、捨此往彼なり」(浄全一〇・一七三上)といい、良忠は『往生要集義記』一において「往生とは此を捨て彼に往きて池蓮華の中に生ず」(浄全一五・一五八下)としている。聖冏は、『釈浄土二蔵義』一一において「往とは捨此往彼、生とは蓮華化生なり」(浄全一二・一二七下)としている。このように浄土宗では、「捨此往彼 蓮華化生」をもって往生としている。
[往生の語義概念について]
曇鸞は『往生論註』下において、生に対する執着を捨て、往生とは無生の生であると知って往生する無生而生往生(上品の者)と、願往生を執着として否定せず、法性無生の理を知らずとも名号を称え往生すれば自然に無生を体得する見生無生往生(下品の者)を説いている。道綽は『安楽集』第一大門において極楽浄土の三界の摂と不摂について「浄土は勝妙にして、体、世間を出でたり。この三界は、すなわちこれ生死凡夫の闇宅なり。…この故に浄土は三界の摂にあらず」(浄全一・六七九下)と述べ三界不摂を明らかにし、第七大門においては浄土が有相であることについて「故にこれ相を取るといえども、まさに執縛とすべきにあらず。またかの浄土にいう所の相とは、すなわちこれ無漏の相、実相の相なり」(浄全一・七〇三下)と述べている。これらは浄土往生が三界を超過し無漏の境界に入るものであり、正しく生死解脱であることを明らかにするものである。善導は『観経疏』において、世親の『往生論』を引用して勝過三界を明らかにし、極楽浄土については「皆これ弥陀浄国の無漏真実の勝相なり」(聖典二・一六四/浄全二・二下)、「西方は寂静無為の楽なり。畢竟逍遥として有無を離れたり」(聖典二・二四八/浄全二・三八上)と述べ、『法事讃』においては「涅槃城に入らしむ」(浄全四・二上)、「極楽浄土は無為涅槃界なり」(浄全四・二一上)と述べている。これらは、有相である極楽浄土への往生が無漏真実・無為涅槃界の境界に入ることを示すものである。
法然は『無量寿経釈』において「往生浄土の法門は、いまだ煩悩の迷を断ぜずといえども、弥陀の願力によりて極楽に生ずる者は、永く三界を離れて、六道生死を出ず。故に知りぬ。往生浄土の法門は、これいまだ惑を断ぜず三界を出過するの法なり」(昭法全六八)と述べ、煩悩の迷いを断つことができない凡夫であっても、阿弥陀仏の本願力によって浄土往生した者は、三界を離れ六道輪廻から解脱することを明らかにし、往生浄土の法門が惑を断ぜずに三界を出過する法であるとしている。また『要義問答』において「往生浄土門というはまず浄土へ生まれて彼にて悟をも開き、仏にも成らんと思うなり」(聖典四・三七八~九/昭法全六一五)と説いているように、法然は浄土に生まれることを往生とし、往生浄土の後に悟りを目指すことを明らかにしている。すなわち『逆修説法』二七日において「いま浄土宗の菩提心とは、まず浄土に往生して、一切衆生を度し、一切の煩悩を断じ、一切の法門を悟り、無上菩提を証せんと欲するの心なり」(昭法全二四〇)と説かれるように、往生の後に菩提心を起こして悟りを目指すのであるから、浄土宗では往生と成仏を同義には捉えない。さらに『選択集』三において「乃至一念至心に回向して、彼の国に生ぜんと願ずれば、すなわち往生を得て不退転に住すと云えるこれなり」(聖典三・一二一/昭法全三二一)と説かれるように、浄土往生は不退転位に入ることである。なお、往生の業成就については「往生の業成就は、臨終平生に渡るべし。本願の文簡別せざる故なり」(聖典六・二八一/昭法全四九四)と述べ、業事成弁は臨終平生にわたるとしている。
聖冏は『釈浄土二蔵義』一一の中で往生について「見生の当体を改めざるの凡夫、覚らずして無生の本際に転入す」(浄全一二・一二六上)と述べ、執着のある凡夫であっても悟らずに無生の境界に入ることを明らかにしている。これは阿弥陀仏の救済が、執着を断ぜずとも執着を超えさせることを示したものである。また「もし実義に約せば往生と言うはこれすなわち無生なり、見生の当体すなわちこれ無生なり、無生にしてしかも生なればすなわちこれ往生なり、往生無生はすなわちこれ無生なり、理事縦横即相不退なり。ただ我が真宗のみ事理ともに頓なり」(浄全一二・一二七下)と述べ、浄土宗の優位性を示している。さらに『法事讃』上の「浄土の無生また別なし、究竟の解脱金剛身なり」(浄全四・九下)の一文について、「もしこの意を解せば、あるいは現世に無生を証し、あるいは即身に往生を得ん、いかに況んや順次の得脱をや」(浄全一二・三四八上)と解し、現世証得としている。
[西山派の説く往生]
証空は、即便往生と当得往生の二つを立てている。『観経定善義他筆抄』上において「此世とは即便往生を云い、後世とは当得往生を云う。証得往生を即便と云い、当得は来迎なり」(西叢六・九上)と述べているように、即便往生とは平生において領解の三心をもって念仏を称えれば、仏の来迎を得て往生を証得する現益のことをいい、当得往生とは臨終に聖衆の来迎を受け穢土より浄土に往生する当益のことをいう。
[真宗で説く往生]
親鸞は『一念多念文意』において「〈即得往生〉というは、〈即〉は、すなわちという、ときをへず日をもへだてぬなり。また、〈即〉はつくという、その位に定まりつくということばなり。〈得〉は、うべきことをえたりという。真実信心をうれば、すなわち無礙光仏の御こころのうちに摂取して、すてたまわざるなり。摂はおさめたまう、取はむかえとると申すなり。おさめとりたまうとき、すなわち、とき・日もへだてず、正定聚の位につき定まるを、〈往生を得〉とはのたまえるなり」(真宗聖典六七八)と述べ、現世において信心が定まった時に往生も定まるとし、それを現生正定聚としている。また、『浄土三経往生文類』においては「大経往生・観経往生・小経往生」について説明し、それぞれ第十八願による往生を他力の念仏による難思議往生、第十九願による諸行往生を双樹林下往生、第二十願による往生を自力の念仏による難思往生としている。また大経往生の説明の中に「現生に正定聚の位に住して、かならず真実報土にいたる。これは阿弥陀如来の往相回向の真因なるがゆえに、無上涅槃のさとりをひらく」(真宗聖典六二五)とあるように、往生即成仏を説いている。
【資料】『楽邦文類』四、『諸家念仏集』四、『念仏得失義』
【参考】望月信亨『略述浄土教理史』(浄土教報社、一九二一)、岸覚勇『浄土宗義の研究』(記主禅師讃仰会、一九六四)、坪井俊映『浄土教汎論』(隆文館、一九八〇)、藤田宏達『原始浄土思想の研究』(岩波書店、一九七〇)、石田瑞麿『往生の思想』(平楽寺書店、一九六八)、香川孝雄『浄土教の成立史的研究』(山喜房仏書林、一九九三)
【参照項目】➡兜率天、兜率西方勝劣、十方往生、十方浄土、十方浄土極楽浄土の勝劣、西方浄土、極楽
【執筆者:曽根宣雄】
[往生の機]
極楽浄土に往生する人の機根(素質・能力)をいう。法然撰とされる『往生記』では、難遂往生機(往生を遂げることが難しい機根)として一三種をあげ、後に種種念仏往生の機として五種の往生の機についてあげている。すなわち①智行兼備念仏往生の機②義解念仏往生の機③持戒念仏往生の機④破戒念仏往生の機⑤愚鈍念仏往生の機であり、さらにこれらを二六種に細別している。このうち、聖冏が『往生記投機抄』において「第五の愚鈍念仏往生の人は、正しくこれ宗の本意なり。またこれ発迹入源門の単信の大信なり」(聖典五・二六六/浄全九・八五一上)と述べるように、浄土宗の正機は、愚鈍念仏往生の機とされる。また『無量寿経』では、往生を願うものの機根に合わせて実践すべき行を説いた三輩が説かれ、『観経』では、往生を願う凡夫の機根により分科された階位である九品が説かれている。これらも往生の機と考えられる。
【参考】柴田哲彦「往生記の総合的研究」(『仏教文化研究』一八、一九七二)
【執筆者:鷹觜観道】
[往生の素懐]
現世を去り極楽浄土に生まれ変わりたいという平素からの願いをいう。「素懐」とは平素からの願い・想い。また特に、出家・極楽往生の願い。浄土願生者の死を「往生の素懐を遂げる」と表す。法然の「生けらば念仏の功積もり、死なば浄土に参りなん。とてもかくても、この身には思い煩うことぞ無きと思いぬれば、死生ともに煩い無し」(『四十八巻伝』聖典六・二八三)とある教えを表現した言葉。
【参照項目】➡機根
【執筆者:服部祐淳】
[往生の障]
上根の者と異なり、中下根の者は臨終まで悪趣での業因を牽引し、弥陀の迎接を得るまではそれを成弁することができないこと。下品中下生の者が念仏の功徳により八十億劫の生死の罪を除いて極楽往生を全うする際に、除かねばならない微細の罪として「見仏の障」「発心の障」と並んで挙げられる三重の障の一つ。良忠『伝通記』において「十念に即ち滅す」(浄全二・四三二下)と説かれ、聖冏『浄土述聞口決鈔』上(浄全一一)、ならびに忍澂『善導大師別伝纂註』上(浄全一六)にも見られる。
【執筆者:渋谷康悦】
[往生と成仏]
往生とは、娑婆世界で命終を迎えた後、極楽浄土に往き生まれることをいい、成仏とは菩薩が兆載永劫の修行によって悟りを得て仏となることをいう。善導は『往生礼讃』の五念門の説明において「また彼の国に到りおわりて、六神通を得て生死に回入して衆生を教化すること後際を徹窮して、心に厭足なくすなわち成仏に至るをまた回向門と名づく」(浄全四・三五五下)と述べ、浄土に往生した後に利他行を成就して成仏するとしている。さらに「前念に命終して、後念に即ちかの国に生ず。長時永劫常に無為の法楽を受く、すなわち成仏に至るまで生死を経ず」(浄全四・三五七上)と述べており、往生と成仏を即時とはしていない。また、『観経疏』玄義分の別時意の会通において「仏果を求めんが為にするは、すなわちこれ正報なり。下にただ発願して浄土に生ぜんと求むるは、すなわちこれ依報なり。…然るに正報は期し難し、一行精なりといえどもいまだ剋せず。依報は求め易けれども、一願の心を以て、いまだ入らざる所なり」(聖典二・一八二/浄全二・二一下)といい、仏果とは正報を求めることであり難しいが、往生とは依報を求めることでありたやすいことであることを明かしている。つまり、善導は、念仏は成仏(正報)においては別時意であるが、往生(依報)においては別時意ではなく願行具足しているとし、成仏と往生を別義としている。法然は『念仏大意』において「末代の衆生、その行成就し難きによりて、まず弥陀の願力に乗りて念仏往生を遂げて後、浄土にて阿弥陀如来観音勢至に値いたてまつりて、諸の聖教をも学し悟をも開くべきなり」(聖典四・三四三/昭法全四〇七)と説き、末代の凡夫は娑婆において悟りを得ることが困難であるので、阿弥陀仏の本願力によって念仏往生を遂げた後に、浄土の阿弥陀仏観音勢至のもとで修行し悟りを開くのだとしている。また『逆修説法』二七日の菩提心の説明において「今浄土宗の菩提心とは、先ず浄土に往生して、一切衆生を度し、一切の煩悩を断じ、一切の法門を悟り、無上菩提を証せんと欲する心なり」(昭法全二四〇)と述べ、浄土に往生した後に衆生を済度し煩悩を断じ法門を悟って無上なる悟りを得るとしている。また聖冏は『糅鈔』三において「凡そ浄土門に遠近の両果あり。往生は近果、成仏は遠果なり。上根は成仏を期して往生を欣う、故にこの人を化すには菩提心を勧む、これ教の本意なり。下根は浄土を期して往生を欣う、故にこの人を化するには三心を勧む、これ教の本意なり。また浄教の意は仏果を成せんがために往生を勧むるが故に、第十八の願には未発心に約して生因を誓いて、すなわち成仏の果となす。故に三経ならびに念仏の人に対して成仏の益を説く」(浄全三・一〇六上)と述べ、浄土門では往生を近果、成仏を遠果とし、仏果を成ずるために先ず往生を勧めるとしている。良栄理本の『東宗要見聞』第二見聞第二では「有相の念仏をもって浄土に往生し、得生已後無相の智を起して、煩悩所知の二障を断じ終に成仏す。しかれば成仏の遠果に望て、今の有相の念仏を今植彼因と云う。しかれば彼というは、欲断二障の仏果を指す。往生の近果を彼と云うにはあらず」(浄全一一・三九三下)といい、有相の念仏によって往生した後に無相の智を起こして二障を断じて成仏するとしている。このように浄土宗においては、往生と成仏は別義であり、往生の後に浄土で修行し成仏を得ると解釈する。真宗では、親鸞が『教行信証』三において「大願清浄の報土には品位階次を云わず、一念須臾の頃に速疾に無上正真道を超証す」(真聖全二・九五)と説いていることに基づき、往生即成仏と解釈し往生と成仏を区別しない。
【執筆者:曽根宣雄】