成仏
提供: 新纂浄土宗大辞典
じょうぶつ/成仏
仏に成ること。成仏道、成道、成正覚などと同義。サンスクリット語には成仏と逐語的に対応する言葉はなく、様々な語句が成仏と訳されている。熟語としての成仏は、漢訳仏典を通して中国仏教において成語化された言葉といえる。成仏とは仏に成ることであるが、それは覚りを開くことであり、また解脱を得ること。人が覚りを得て仏に成れることを示したのは、仏教の開祖釈尊である。釈尊は菩提樹下での禅定によって、覚りを得て仏と成った。その後、釈尊は伝道の旅に赴き、その教えを聞き、釈尊と同様に覚りの境地に達した人もいた。例えば『四分律』三二には、初転法輪によって解脱を得た五人の比丘と釈尊を合わせて「此の世間に六羅漢あり」(正蔵二二・七八九中)と述べ、五比丘と釈尊とがともに阿羅漢の境地にあることを示している。仏に成ることと、覚りを得ることを同義と考えるならば、いかなる人でも出家して修行することで、成仏ができるとするのが釈尊の教えである。これは『スッタニパータ』八一偈や三八六偈などにおいて言及されている諸仏(中村元訳では「目覚めた人々」)が、修行者と同義とみなせることからも裏付けられる。しかし、原始仏教のこのような教えは、部派仏教には継承されなかった。部派仏教での仏あるいは諸仏とは、釈尊のことであり、釈尊以前に仏となった過去の諸仏のこと。部派仏教の実践論では、多くの仏道修行者が目指すべき境地は阿羅漢であり、菩薩から仏に進む道を歩むことができるのは極めて限られた存在である。原始仏教では阿羅漢と仏は同様の存在といえるが、部派仏教では両者を峻別しており、あらゆる人々が仏と成る道は閉ざされている。大乗仏教は部派仏教のこのような点を批判し、釈尊と同様の境地に至る実践を、釈尊の覚りそのものの考察を通して模索した。もちろん大乗仏教にも様々な教えがあり、仏となる道にも様々な種類があるといえるが、大乗仏教の修行者が目指すべきは、釈尊の菩提樹下での覚りを追体験することにあるといえる。このような思想を基底としつつ、大乗仏教の個々の経論は、成仏するための具体的な方法論やその可能性を、種々の角度から考察している。
【資料】『雑阿含経』一二
【参考】中村元訳『ブッダのことば』(岩波文庫、一九八四)
【参照項目】➡往生、見性成仏、即身成仏、女人成仏、涅槃、念仏と成仏、仏
【執筆者:石田一裕】