至誠心
提供: 新纂浄土宗大辞典
しじょうしん/至誠心
弥陀の浄土への願生者が必ず具足すべき、まことの心。真実心。『観経』に、「上品上生の者とは、もし衆生あって、かの国に生ぜんと願ぜば、三種の心を発すべし。すなわち往生す。何等をか三とす。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり」(聖典一・三〇五〜六/浄全一・四六)と説かれる三心の一つ。至誠心の解釈、およびその階位については諸説がある。浄影寺慧遠によれば、三心は四種の行法のうちの修心往生にあたるとされ、至誠心を真実心と解釈する。しかも、この至誠心は上品上生・上品中生・上品下生に共通するとする。知礼は『起信論』所説の直心・深心・大悲心のうちの直心と同じとし、五二位の菩薩の階位のうち、第十信の位に発す心とする。良源は『維摩経』所説の直心・深心・回向心のうち、直心に配当する。また元照は三心を菩提心と解釈した。以上の諸師を批判した善導は自力の修行による三心を否定し、他力の念仏によって浄土往生を目ざす三心を説いた。すなわち、「至とは真なり、誠とは実なり。一切衆生の身・口・意業に修する所の解行、必ず真実心の中に作すべきことを明さんと欲す」(聖典二・二八八/浄全二・五五下)といい、至誠心を真実心と解釈している。阿弥陀仏はもともと法蔵菩薩として修行していたときに、一念一刹那であっても、三業に修する所の解行を悉く真実心の中でなされたのであるから、当然衆生も真実心をもって極楽を願生しなければならないとした。さらにその真実に自利真実(自らが真実心をそなえる場合)と利他真実(他を教えて真実心をそなえる場合)の二種があるとし、とくに前者の自利真実を詳説して、止悪と修善とに分釈している。善導の説示を受けた法然は至誠心と他の二心との関係について「至誠心は深心と回向発願心とを体とす。この二つを離れては何によりてか至誠心を現ずべき。広く外を尋ぬべきにあらず、深心も回向発願心もまことなるを至誠心とは名づくるなり」(聖典四・三〇六/昭法全五二〜三)といい、至誠心の具体的内容が深心と回向発願心であると説く。その上に立って、『選択集』八の私釈段では「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くとは、外は内に対する辞なり。謂く、外相と内心と調わざる意なり」(聖典三・一五二/昭法全三三三)といい、至誠心とは内外相応の心であるとし、『往生大要抄』『御消息』等では二種の真実虚仮釈(四句分別)を述べて詳論している。また同私釈段では続いて、内外相応について「飜外蓄内(外を翻じて内に蓄えば)」(聖典三・一五二/昭法全三三三)と「飜内播外(内を翻じて外に播さば)」(聖典三・一五三/昭法全三三三)の二種の心を説く。前者は飾り立てられた賢善精進というその姿(外相)を裏返しにして内心に蓄えよということであり、後者は虚仮であるところの内心を外相に投げ捨て播して、裏返しにしなさいということである。この二種の心は心の主人公を妄念から念仏へと入れかえるということであり、懺悔の心に通ずるものである。
法然滅後、門下の時代になると、至誠心釈はさらに詳細に議論が展開されるが、大別して二つの立場に分類することができる。一つは衆生の側に立つ至誠心釈で、鎮西流の聖光・良忠、九品寺流の長西、諸行本願義系の住心・良遍・真空・悟阿・凝然等の諸師が含まれる。今一つは仏の側に立つ至誠心釈で、一念義の幸西、長楽寺流の隆寛、西山派の証空、浄土真宗の親鸞等の諸師が含まれる。まず良忠は至誠心すなわち真実心とは質直の心であると釈す。この場合の真実とは衆生の起こす有漏真実であって、無漏真実のことではない。衆生が起こす有漏真実の心であることから、その至誠心には当然浅深・高下があり、また退失してしまう場合があるという。ただその至誠心の程度(至誠心の分斉)について『決疑鈔』には「唯己の分に局りて不諂の心を極むる」(浄全七・二七一下)程度でよいとする。また至誠心の体について『東宗要』では「至誠心の体は古来未決なり。今考えて行捨を体とす」(浄全一一・七八下)と述べている。衆生が起こす至誠心釈の立場に立つ良忠にとって善導の雖起三業の釈文(悪性の凡夫がたとえ三業の修行に励んだところで、それは真実の業とはならない)の会通が課題であったが、良忠は①表知三業説(聖光)②能等起三業説(良忠)③刹那等起三業説(明遍)④虚仮三業起行説(良忠)の四説を列挙し、第四を正とし、雖起三業の「三業」とはあくまでも安心ではなく虚仮の起行を意味すると決釈している。次に西山派証空は至誠心を「至れる誠の心」と読み、衆生が機の上に起こす真実心ではなく、仏の真実心であるとする。したがって、善導の釈文「不得外現賢善精進之相内懐虚仮」を「外に賢善精進の相を現じ、内には虚仮を懐くことを得ず」と読む。「不得」とは凡夫が他力の真実を領解すれば、もはや「外現精進之相内懐虚仮」(内外不相応)という障りに悩まされることはないとしたのである。また「凡所施為趣求亦皆真実」を「およそ施為・趣求するところ、またみな真実なり」と読む。すなわち、弥陀が衆生に施為するところが真実であるからこそ、それをいただいて仏果を趣求する凡夫もまた真実となるとする。証空は真実には聖道の真実と浄土の真実の二種があるとし、聖道門の真実とは修行者自らが惑を断じ得た分斉・程度に応じて獲得するものであるから、凡夫にとっては困難である。一方、浄土門の真実とは釈尊の本意・弥陀の別願の謂れ(凡夫の出離と仏の利生との不二一体成就)を知り、仏の心と相応する初後不二の心にもとづく。したがって、浄土門の真実心は帰仏の心であるから、浅深・高下はまったくないという。また真実心とは自力を捨てて他力に帰する心を意味するという。この立場から善導の至誠心釈の釈文を解釈すると、「雑毒之善・虚仮之行」とは他力領解以前の自力聖道門の立場をあらわしたものであり、『選択集』八私釈段の釈文「飜外蓄内・飜内播外」とは凡夫が自力によって真実心を具足することは困難であることをあらわしていると理解している。法然における内外相応論では、内心と外相とが一致してともに真実であることを追究したが、証空の場合は自力を捨てて他力に帰することによって、本来真実心を獲得できない悪性の凡夫でも真実心を獲得できると説くにいたったのである。最後に親鸞は『観経』には顕彰・隠密の二義があるとし、顕彰の義では至誠心とは衆生の起こす真実心であるが、隠密の義では阿弥陀仏の本願他力の真実心を信じる心をいうとする。すなわち、後者では至誠心は『無量寿経』第十八願文の至心・信楽・欲生我国の「至心」と同じく如来回向の安心であるとする。このような視点から親鸞は四箇所にわたって善導の至誠心釈を独自の独創的な訓点で読み替えを行っている。
【参考】石井教道『浄土の教義と其教団』(宝文館、一九二九)、同『選択集全講』(平楽寺書店、一九六七)、藤堂恭俊『選択集講座』(浄土宗、二〇〇一)、廣川堯敏「善導・至誠心釈をめぐる対論」(正大紀要七二、一九八六)
【参照項目】➡三心
【執筆者:廣川堯敏】