長楽寺流
提供: 新纂浄土宗大辞典
ちょうらくじりゅう/長楽寺流
法然門下の隆寛の門流を指す。隆寛は『選択集』の附属も受けた法然の高弟であり、法然滅後には重要な立場にあった。定照の『弾選択』に対して『顕選択』を著しその法然の立場を顕彰し、のち嘉禄の法難となった。隆寛は東山長楽寺の来迎房を拠点として活動し、その門流は多念義、長楽寺流とよばれる。隆寛は『知恩講私記』や『別時念仏講私記』の作者であり、法然滅後の教団において、教化の基礎を作った人物といえる。門弟には、敬日・智慶・信瑞・願行房憲静等がいるが、敬日は、嘉禄三年(一二二七)八月の検非違使別当宣「念仏者余党溺出」にその名前がみえ、「長楽寺一方の正統」とされた有力な門弟である。また智慶は、隆寛の『散善義問答』を六波羅蜜寺内の生願房の房中で書写しており京洛での活動が知られる。東大寺の凝然をして、関東の浄土教流布は、智慶の力にあるといわしめたように、長楽寺流において極めて重要な役割を担っていた。長楽寺流は関東方面への進出もめざましく、智慶・憲静・信瑞は当時の新興都市である鎌倉において活動し、関東方面に法然流浄土教を広めることに貢献した。しかし、上記の門弟には隆寛独自の他力念仏の継承はなく、諸行往生を容認した行重視の念仏という印象が強い。『円照上人行状』によれば、長楽寺来迎房に居住した曇道房、また長楽寺義五代の空蔵房観海は東大寺円照より授戒を受け真言を伝授しており、同派は諸宗交流の中で、唱導や勧進活動に従事したことが推測される。長楽寺流の活動は、『滅罪劫数義』に長楽寺流沙門隆秀なる僧が文明九年(一四七七)に本書を書写した奥書がみえ、この頃までは存在していたことが確認される。
【参考】平井正戒『隆寛律師の浄土教』(国書刊行会、一九八四)、恵谷隆戒『補訂版概説浄土宗史』(隆文館、一九七八)、伊藤茂樹「隆寛の別時念仏講について」(『仏教論叢』四九、二〇〇五)
【執筆者:伊藤茂樹】