雖起三業
提供: 新纂浄土宗大辞典
すいきさんごう/雖起三業
煩悩にまみれた凡夫がいくら善の三業を修しても、真実の心が欠けていれば本当の善とはならず雑毒虚仮の善になってしまうということ。浄土宗義上の論題の一つ。善導は、至誠心を解説する中に「外、賢善精進の相を現じ、内、虚仮を懐くことを得ざれ。貪瞋邪偽奸詐百端にして、悪性侵め難く、事、蛇蝎に同じきは、三業を起すといえども名づけて雑毒の善とし、また虚仮の行と名づく」(『観経疏』散善義四、聖典二・二八八/浄全二・五五下)と述べている。この文の解釈が法然門下でそれぞれに異なり論題の一つとなっている。雑毒の善、虚仮の行となるということは往生業にならないという受け取りから、西山派や真宗では、凡夫が積む自力の善根はどこまでいっても虚仮の行であるから往生の因とはならないと解釈する。浄土宗義では凡夫の起こす心で往生がかなうという立場から、良忠は『伝通記』散善義記一(浄全二・三七八上~九上)、『決疑鈔』三(浄全七・二七二上~三上)などにおいて、ここでの「三業」ということばの四つの解釈を示している。①表知三業—外面は合掌・念仏し善を見せかけているが内面は安心を欠き、内外一致していない三業のこと。これは聖光の説である。②能等起三業—人がある行動を起こす際に三段階の意志過程(審慮思—決定思—動発勝思)を経るという唯識論の考えに基づき、身口の活動を発す意志の初めの一念(能等起)が善であっても、その前段階の心的状態が虚偽である(=安心を欠く)ため真実の三業となり得ないということ。これは良忠自身の解釈である。③起行三業—三業のうちいずれか一つについてでも願生心(安心)を伴わない内外不調の行為を修した場合のこと。これも聖光の説としている。④刹那等起三業—身口の活動を起こす際に初一念(能等起)の後、第二念後に起こっては止み、止んでは起こる刹那的な存在活動の三業のこと。たとえ一瞬だけ善の三業が整ったとしても、すぐ次の瞬間には乱れてしまうのが凡夫であるという立場である。これは明遍の説としている。以上のように凡夫往生の可否はその行業に裏表のない安心が伴うか否かによることを主張し、至誠心の重要性を述べている。さらに後の文脈では行者の心が弱くとも、真実相順すれば余りある仏願の強さによって摂取されていくと結論している。
【参考】石井教道『選択集全講』(平楽寺書店、一九五九)
【参照項目】➡至誠心
【執筆者:渋谷康悦】