念仏往生
提供: 新纂浄土宗大辞典
ねんぶつおうじょう/念仏往生
南無阿弥陀仏の称名念仏一行を修して、極楽浄土に往生すること。諸行を修して往生する諸行往生の対。『無量寿経』に説かれる第十八願文「もし我仏を得たらんに、十方の衆生至心に信楽して、我が国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、もし生ぜずんば、正覚を取らじ」(聖典一・二二七/浄全一・七)に基づく教え。曇鸞は『往生論註』下に「仏の願力に縁るが故に十念念仏して便ち往生を得」(浄全一・二五五下)と説き、道綽は『安楽集』上に「もし衆生ありて、たとい一生悪を造るとも、命終の時に臨んで十念相続して我が名字を称せんに、もし生ぜずんば正覚を取らじ」(浄全一・六九三上)と説き、称名念仏をもって往生の正因としている。善導は『観経疏』において浄土往生の行として五種正行を示し、その中より称名正行をもって正定業とした。また、第十八願については『観念法門』において「もし我成仏せんに、十方の衆生、我が国に生ぜんと願じて、我が名字を称すること下十声に至るまで、我が願力に乗じて、もし生ぜずば正覚を取らじ」(浄全四・二三三上)と釈し、『往生礼讃』において「もし我成仏せんに、十方の衆生、我が名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずば、正覚を取らじ」(浄全四・三七六上)と釈して、念仏を称名念仏と解している。法然は『選択集』三において「問うて曰く、経には十念と云う、釈には十声と云う。念声の義いかん。答えて曰く、念声はこれ一なり。何をもってか知ることを得たる。観経の下品下生に云く〈声をして絶えざらしめ、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するが故に念念の中において八十億劫の生死の罪を除く〉と。今この文に依るに、声はこれ念なり、念はすなわち声なること、その意明らけし」(聖典三・一二二/昭法全三二一)と述べ、『観経』に基づいて念声是一論を確立しており、念声是一とは仏説であることが解る。また、阿弥陀仏が、第十八願において一切の諸行を選捨し、念仏一行を選取し、往生の本願としたことについては、『選択集』三の「勝劣の義」において「念仏はこれ勝、余行はこれ劣なり」(聖典三・一一八/昭法全三一九)と述べ、「難易の義」において「念仏は修し易く、諸行は修し難し」(聖典三・一一八/昭法全三一九)と述べている。すなわち念仏は、功徳に勝れた易行である故に阿弥陀仏が選択したのである。『選択集』七に「念仏は、これすでに二百一十億の中に、選取する所の妙行なり。諸行はこれすでに二百一十億の中に、選捨する所の粗行なり。故に全く比校に非ずと云う。また念仏はこれ本願の行、諸行はこれ本願に非ず。故に全く比校に非ずと言う」(聖典三・一三八/昭法全三二八)とあるように、念仏は選択本願の行である故に諸行とは比較にならないのである。さらに法然は『選択集』三において「諸師の釈には別して十念往生の願と云う。善導独り総じて念仏往生の願と云えり。…善導の総じて念仏往生の願と云えるは、その意すなわち周し。然る所以は、上一形を取り、下一念を取るが故」(聖典三・一二三/昭法全三二一)と述べ、第十八願を「念仏往生の願」と名づけることを明らかにしている。
【参考】林田康順「法然上人における勝劣義の成立過程—『逆修説法』から廬山寺蔵『選択集』へ」(『仏教文化学会紀要』八、二〇〇九)
【執筆者:曽根宣雄】