称名念仏
提供: 新纂浄土宗大辞典
しょうみょうねんぶつ/称名念仏
仏の名を声に出して称える行法。口称念仏ともいう。古くから感興のことばとして、仏の姿を見たり仏の法を聞いて帰依し讃歎するときに、おもわず口をついて発せられる称名が説かれているが、これは何らかの願いや目的を成就するためになされる称名ではない。大乗仏教になると、願いや目的を成就するために実践される行法として積極的に説かれるようになる。浄土教における称名念仏とは、光明無量、寿命無量の救済者である阿弥陀仏に対し、来迎引摂、往生浄土を願って、「南無阿弥陀仏」の六字名号を称える行法のことをさし、現在中国、台湾、朝鮮半島、日本においてひろく実践されている。念仏にはこの称名と観念の二種があるが、「浄土三部経」および善導の釈義により、浄土宗では称名の念仏をもって正義とする。『無量寿経』の第十八願に「もし我れ仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽して、我が国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、もし生ぜずんば、正覚を取らじ」(聖典一・二二七/浄全一・七)と説かれ、『阿弥陀経』では「舎利弗、もし善男子・善女人あって、阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持すること、もしは一日…もしは七日、一心不乱なれば、その人命終の時に臨んで、阿弥陀仏、諸もろの聖衆とともに、現にその前に在す。この人終わる時、心顚倒せず、すなわち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得」(聖典一・三一八~九/浄全一・五四)と説かれている。これら両経に対して、『観経』の下品下生では「汝もし念ずること能わずんば、まさに無量寿仏と称すべしと。かくのごとく至心に、声をして絶えざらしめ、十念を具足して、南無阿弥陀仏と称す。仏名を称するが故に、念念の中において、八十億劫の生死の罪を除く」(聖典一・三一二/浄全一・五〇)とあるように、臨終における称名念仏による救済を説いている。『無量寿経』の第十八願にある「十念」に関して、道綽は『安楽集』巻上第三大門に「大経に云く、もし衆生ありて、たとい一生悪を造れども、命終の時に臨み、十念相続して我が名字を称せんに、もし生ぜずんば正覚を取らじ」(浄全一・六九三上/正蔵四七・一三下)と読みかえた上で引用し、称名の念仏であることを明言している。同じく善導も、『往生礼讃』において第十八願を「若し我れ成仏せんに、十方の衆生、我が名号を称して下十声に至らんに、若し生ぜずんば正覚を取らじ」(浄全四・三七六上/正蔵四七・四四七下)と引用しているように、やはり第十八願の「十念」を称名念仏であると理解している。また善導は『阿弥陀経』の一七日の「執持名号」についても『往生礼讃』で「名号を執持すること、若しは一日、若しは二日、乃至七日、一心に仏を称して乱れざれば…」(浄全四・三七六上/正蔵四七・四四七下)と述べている。このように、「浄土三部経」に説かれている念仏が称名念仏であると理解されていくのである。これを受けて法然は『選択集』三に、「問うて曰く、経に十念と云い釈に十声と云う。念声の義如何。答えて曰く、念声はこれ一なり」(聖典三・一八/浄全七・二二上)と述べて、いわゆる念声是一論を展開している。また『十二問答』でも、「口にて称うるも名号、心にて念ずるも名号なれば、いずれも往生の業とはなるべし。ただし仏の本願は称名の願なるが故に声を立てて称うべきなり」(聖典四・四三五)と述べているように、第十八願文における仏の聖意を、善導の釈義を通して口称念仏であると理解しているのである。
【参考】香川孝雄「称名念仏思想の形成」(『浄土教の成立史的研究』山喜房仏書林、一九九三)、藤田宏達「念仏と称名」(『印度哲学仏教学』四、一九八九)、山本仏骨「道綽・善導の念仏思想」(『浄土教の研究』永田文昌堂、一九八二)、藤堂恭俊「法然上人における称名念仏と諸行」(『仏教の実践原理』山喜房仏書林、一九七七)、髙橋弘次「法然上人における念仏の性格と構造」(『法然仏教の研究』同、一九七五)、真野龍海「浄土教経典の文献学的研究—阿弥陀、称名について」(『仏教文化研究』二一、一九七五)
【執筆者:齊藤隆信】