道綽
提供: 新纂浄土宗大辞典
どうしゃく/道綽
北斉・河清元年(五六二)—唐・貞観一九年(六四五)四月二七日。西河禅師。中国、隋・唐代の浄土教者。浄土五祖の一人。仏教を聖道門と浄土門の教えに分け、末法という時代と凡夫という機根に相応する教えは浄土門であるとして、浄土門、念仏の教えをもって民衆を教化した。また阿弥陀仏を応身(化身)、極楽を応土とする解釈に対し、阿弥陀仏は報身であり極楽は報土であることを主張した。道綽は幷州汶水(山西省)の生まれ、本姓は衛。一四歳で出家した。五七七年に北斉が北周によって滅ぼされ、北斉地域においても北周武帝が廃仏を実施したため、道綽もこれに巻き込まれ、このことが末法を実感する遠因となる。道綽は、まず『涅槃経』を研究し、二四遍講義したといわれる。さらに実践を旨とした慧瓚(五三六—六〇七)に師事。その後大業五年(六〇九)に、曇鸞を慕って浄土教に帰入し、玄中寺に住した。浄土教に帰入した後は、玄中寺において『観経』を二〇〇遍講義した。また木欒子の実や豆などを用いて、念仏の回数を数えさせた。これらの教化によって玄中寺周辺の民衆が数多く念仏者となったという。貞観一九年四月二七日に、玄中寺において八四歳で没した。著書に『安楽集』二巻があり、また現存しないが『行図』という著書があったと伝えられる。道綽は、教えは時代と能力に相応している必要があるとした。そして現在は末法であり、修福懺悔すべき時であるとし、そのような時代にあって凡夫に相応する教えは浄土門しかないとして、念仏を勧めた。また浄影寺慧遠などが、『観音授記経』所説の阿弥陀仏入涅槃説を証として阿弥陀仏は応身であるとしたことに対し、『大乗同性経』の浄土成仏の仏は報身であるとの説をあげ、また阿弥陀仏の入涅槃は、『宝性論』所説の報身の五種相の一つ休息隠没であるとして、阿弥陀仏は報身、極楽は報土であると主張し、これが後の善導に受け継がれていった。
【資料】『続高僧伝』二〇(正蔵五〇)、迦才『浄土論』(浄全六/正蔵四七)
【参考】塚本善隆「道綽の回心」(『安居講録』一、知恩院、一九五六)、山本仏骨『道綽教学の研究』(永田文昌堂、一九五九)、野上俊静『中国浄土三祖伝』(文栄堂、一九七〇)、牧田諦亮他「道綽—その歴史像と浄土思想—」(『浄土仏教の思想』四、講談社、一九九五)
【執筆者:曽和義宏】