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選択本願念仏

提供: 新纂浄土宗大辞典

せんちゃくほんがんねんぶつ/選択本願念仏

阿弥陀仏が、あらゆる仏道修行の中から、取捨を施す「選択」を経て、浄土往生の行として「本願」に定めた、称名念仏」のこと。法然による創唱。『徹選択集』上において聖光は、「本『選択集』の題に就いて、これに三義有り。いわゆる、第一に、本『選択集』の題中に〈念仏〉と言うは、これ諸師所立の口称念仏なり。故に題の次の行に〈南無阿弥陀仏〉と言うなり。第二に、本『選択集』の題の中に〈本願〉と言うは、これ善導所立の本願念仏なり。故に題の次の行に〈南無阿弥陀仏〉と言うなり。第三に、本『選択集』の題中に〈選択〉と言うは、これ然師所立の選択念仏なり。故に題の次の行に〈南無阿弥陀仏〉と言うなり」(聖典三・二五九/浄全七・八三下)と説示し、選択本願念仏の成立には三段階があり、善導が所立した本願念仏法然が「選択」の義を加えて創唱したことを明らかにしている。さらに聖光は、龍樹が『大智度論』三八に「阿弥陀仏の先世の時、法蔵比丘る、仏、将導して、遍く十方に至りて、清浄の国を示して、浄妙の国を選択せしめ、以て自ら其の国を荘厳せしが如し」(正蔵二五・三四三上)と「選択」を用いた先例を挙げて、「然ればすなわち選択本願念仏の義は、更に以て法然上人の義に非ず。すなわちこれ龍樹菩薩の義なり。また龍樹菩薩の義に非ず。すなわちこれ法蔵菩薩の義なり。また法蔵菩薩の義に非ず。すなわちこれ先仏の義なり。先仏の義なるが故に、すなわちこれ法蔵菩薩の義なり。法蔵菩薩の義なるが故に、すなわちこれ龍樹菩薩の義なり。龍樹菩薩の義なるが故に、すなわちこれ法然上人の義なり」(聖典三・二六六/浄全七・八六下)と法然によって創唱された選択本願念仏思想に歴史的正統性を与えている。良忠も「諸師、文を作るに必ず本意一つ有り。慧心は因明直弁の義を立て、善導本願念仏の一義を釈す。予(法然)は選択の一義を立てて選択集を造る」(浄全一〇・二六二下)と、聖光を通じた法然の言葉を伝え、法然が新たに「選択」の義を立てて『選択集』を撰述したことを明らかにしている。

法然は、『選択集』三において、なぜ阿弥陀仏称名念仏一行を本願往生行として選択したのかについて、「問うて曰く、普く諸願に約するに粗悪を選捨し善妙を選取すること、その理然るべし。何が故ぞ第十八の願に一切の諸行を選捨し、ただ偏に念仏の一行を選取して往生本願とするや。答えて曰く、聖意測り難し。たやすく解すること能わず。然りといえども、今試みに二義を以てこれを解せば、一には勝劣の義、二には難易の義なり」(聖典三・一一八/昭法全三一九)という問答を設定して、阿弥陀仏による選択の由縁として、念仏功徳が勝れ、すべての人に修め易く、諸行功徳が劣り、すべての人に修め難いという勝劣難易の二義を説き、選択本願念仏の他の諸行に対する優先的価値付けを導き出し、専修念仏の根拠とした。さらに法然は、『選択集』一・二において選択本願念仏に至る道筋を説き、『同』八・九において選択本願念仏を修める行者安心作業を説き、残りの一二章において阿弥陀仏選択本願を根拠として弥陀釈迦・諸仏の三仏が称名念仏を選び取り、諸行を選び捨てたことを詳述し、『同』一六においてそれらを抽出した三仏同心になる八種選択を提示している。この八種選択選択本願念仏をめぐって良忠は、「問う。文中につぶさに八種の選択有り。題下の選択、八義に通ずべし。然るに今何ぞ本願の一義を存するや。答う。作者の所伝なり。何ぞ強いて疑いを致さん。既に選択本願と云う。豈に余義に通ずべけんや。但し難に至っては余の七種の義は本願を源となす。本を挙げて末を摂するのみ」(『決疑鈔浄全七・一九〇上)と述べ、選択の義は八種の選択に通じているのに、なぜ『選択集』の題名に選択本願と記載しているのかと問いを設定した上で、撰者法然の意に疑いを差し挟むべきではないと回答しつつも、選択本願の義が他の七種の選択に通じていることは明らかであり、他の七種の選択の源こそ選択本願の義であり、選択本願と他の七種の選択とは本末の関係にあると指摘している。すなわち、法然開宗した浄土一宗が一代仏教中において絶対的・普遍的な位置にあることを宣言した三仏同心になる八種選択思想の源流であり、根本となる教えこそ、選択本願念仏に他ならない。そして、だからこそ、その選択本願念仏を冠した『選択本願念仏集』が法然畢生の書であり、古来、浄土宗第一の聖典と尊ばれる由縁なのである。


【参考】林田康順「法然上人〈選択思想〉と〈勝劣難易二義〉をめぐって」(『仏教論叢』四三、一九九九)、同「『選択集』の構造—偏依善導一師—」(印仏研究五五—一、二〇〇六)、同「法然における〈選択〉思想の成立とその意義」(『仏教学』五一、二〇〇九)


【参照項目】➡選択八種選択選択本願念仏集


【執筆者:林田康順】