「御忌会」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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現在[[知恩院]]では、一月一八日に[[御忌]]<ruby>定式<rt>さだめしき</rt></ruby>が大[[方丈]]の仏間(鶴の間)で行われ、[[門跡]]より[[唱導師]]と[[逮夜]][[導師]]の辞令が授与される。一月二五日は御祥当忌月[[法要]]を[[勢至堂]]で修す。四月一八日、<ruby>鳳詔頂戴式<rt>ほうしょうちょうだいしき</rt></ruby>が大[[方丈]]仙人の間(三段の間)で行われ、[[唱導師]]は[[法要]]に先立って「[[大永の御忌鳳詔]]」を拝戴する儀式を行う。同日の[[開白]][[法要]]では[[逮夜]][[法要]]に先立って、<ruby>御開扉<rt>ごかいひ</rt></ruby>[[作法]]と献華式が行われる。[[知恩院]]の<ruby>[[耆宿]]<rt>ぎしゅく</rt></ruby>が[[門跡]]に[[礼拝]]した後に[[宮殿]]前に進み、[[洒水]][[作法]]をして[[宮殿]]の扉を開いてから[[逮夜]][[法要]]を厳修する。[[逮夜]][[法要]]では、[[式衆]]と出勤[[寺院]]が<ruby>笏<rt>しゃく</rt></ruby>[[念仏]][[行道]]する。[[知恩院]]における[[御忌会]]の[[日中]][[法要]]の特色は、中央[[高座]]で「[[唱導]]」と「<ruby>御[[諷誦]]<rt>ごふじゅ</rt></ruby>」を唱える[[唱導師]]とその後方の[[高座]]に[[門跡]]が座して厳修することである。[[法要]]前には、まず[[唱導師]]が[[門跡]]に挨拶する[[導師]]拝礼を行い、<ruby>[[御影堂]]<rt>みえいどう</rt></ruby>裏で西に向かって<ruby>[[阿弥陀堂]]遥拝<rt>あみだどうようはい</rt></ruby>、東へ向かって<ruby>[[御廟]]<rt>ごびょう</rt></ruby>遥拝し[[阿弥陀仏]]と[[祖師]]に[[唱導]]を勤める挨拶をする。また、西に向かうのは、[[御忌会]]の無事円成祈念に[[鎮守]]社を拝し([[知恩院]]日鑑)、[[御忌]]の詔勅を賜った後柏原天皇に礼を尽くし御所遥拝するためとする説もある。二五日の御当日、[[導師]]は[[知恩院]]に伝わる俊乗房[[重源]]将来雄誉[[霊巌]]遺物の伝衣の[[袈裟]]を[[門跡]]より伝えられる[[作法]]を受ける。<ruby>集会堂<rt>しゅうえどう</rt></ruby>で[[法要]]に[[随喜]]する出勤[[寺院]]が[[荘厳]]衣を被着し、<ruby>[[典謁]]<rt>てんえつ</rt></ruby>の「○〇の国○〇寺」という独特の節回しの[[調読]]によって、[[座次]]に従って整列する。そして[[門跡]]が[[式衆]]と共に古経堂より集会堂に[[昇堂]]し、その後に[[唱導師]]が続き、所定の場所に進む。「[[袈裟被着偈]]」が唱えられると、廊鐘が[[三下]]される。別席・準別席・[[式衆]]・[[先進]]・役席・内役・[[門跡]]・[[伴僧]]の順に[[御影堂]]へと進む。その後に、<ruby>好身[[法類]]<rt>よしみほうるい</rt></ruby>・[[唱導師]]・[[伴僧]]と[[大衆]](出勤[[寺院]])が順次参進。[[大衆]]一同が着座し、献香・献菓茶し、[[前伽陀]]が唱えられ、[[同音]]になってから、[[唱導師]]が[[内陣]]に進んで大師前三拝後[[門跡]]に一拝して[[登高座]]する。「[[開経偈]]」『[[阿弥陀経]]』、<ruby>[[散華]]<rt>さんげ</rt></ruby>を唱えた後に、[[唱導]]を独唱する。その後御[[諷誦]]の独唱をして恩徳を[[讃歎]]する。雑[[諷誦]]黙読、[[発願文]]を唱え、御書拝読([[選択集]]黙読)して、『[[一枚起請文]]』を[[大衆]]同和する。[[唱導師]]は心念[[説法]]し、補闕分終わって[[後伽陀]][[同音]]で[[下高座]]し、[[門跡]]に一拝して先に[[退堂]]する。[[賛念仏]]・[[念仏一会]]・「[[自信偈]]」で[[門跡]]が[[御忌]]の[[回願]]をし、付[[回向]]の後に[[授与十念]]をして[[退殿]]する。[[唱導師]]は集会堂で[[門跡]]と[[大衆]]を迎え、挨拶の拝礼をする。一八日の[[開白]][[法要]]では献華式、[[逮夜]][[法要]]後に高齢者招待祝賀会、二〇、二一日には[[吉水講]][[詠唱]]奉納[[大会]]、二二日に[[納経]][[法要]]、二三日の[[日中]][[法要]]前に[[音楽法要]]、[[日中]][[法要]]に続き[[納骨]]諸堂参拝、二五日の[[日中]][[法要]]前に[[献茶式]](供茶式)、[[日中]][[法要]]後に集会堂で満座式、[[御廟]]参拝して[[放生会]]によって[[御忌]][[大会]]が成満する。平成二三年(二〇一一)は三月一一日の東日本大震災によって、[[元祖]][[法然]][[上人]]八〇〇年[[大遠忌]][[法要]]は延期され、一〇月二日より二五日までの間に厳修された。四月一八日には<ruby>法爾<rt>ほうに</rt></ruby>[[大師号]]の奉戴報告[[法要]]を[[御忌]][[逮夜]][[法要]]の前に厳修した。 | 現在[[知恩院]]では、一月一八日に[[御忌]]<ruby>定式<rt>さだめしき</rt></ruby>が大[[方丈]]の仏間(鶴の間)で行われ、[[門跡]]より[[唱導師]]と[[逮夜]][[導師]]の辞令が授与される。一月二五日は御祥当忌月[[法要]]を[[勢至堂]]で修す。四月一八日、<ruby>鳳詔頂戴式<rt>ほうしょうちょうだいしき</rt></ruby>が大[[方丈]]仙人の間(三段の間)で行われ、[[唱導師]]は[[法要]]に先立って「[[大永の御忌鳳詔]]」を拝戴する儀式を行う。同日の[[開白]][[法要]]では[[逮夜]][[法要]]に先立って、<ruby>御開扉<rt>ごかいひ</rt></ruby>[[作法]]と献華式が行われる。[[知恩院]]の<ruby>[[耆宿]]<rt>ぎしゅく</rt></ruby>が[[門跡]]に[[礼拝]]した後に[[宮殿]]前に進み、[[洒水]][[作法]]をして[[宮殿]]の扉を開いてから[[逮夜]][[法要]]を厳修する。[[逮夜]][[法要]]では、[[式衆]]と出勤[[寺院]]が<ruby>笏<rt>しゃく</rt></ruby>[[念仏]][[行道]]する。[[知恩院]]における[[御忌会]]の[[日中]][[法要]]の特色は、中央[[高座]]で「[[唱導]]」と「<ruby>御[[諷誦]]<rt>ごふじゅ</rt></ruby>」を唱える[[唱導師]]とその後方の[[高座]]に[[門跡]]が座して厳修することである。[[法要]]前には、まず[[唱導師]]が[[門跡]]に挨拶する[[導師]]拝礼を行い、<ruby>[[御影堂]]<rt>みえいどう</rt></ruby>裏で西に向かって<ruby>[[阿弥陀堂]]遥拝<rt>あみだどうようはい</rt></ruby>、東へ向かって<ruby>[[御廟]]<rt>ごびょう</rt></ruby>遥拝し[[阿弥陀仏]]と[[祖師]]に[[唱導]]を勤める挨拶をする。また、西に向かうのは、[[御忌会]]の無事円成祈念に[[鎮守]]社を拝し([[知恩院]]日鑑)、[[御忌]]の詔勅を賜った後柏原天皇に礼を尽くし御所遥拝するためとする説もある。二五日の御当日、[[導師]]は[[知恩院]]に伝わる俊乗房[[重源]]将来雄誉[[霊巌]]遺物の伝衣の[[袈裟]]を[[門跡]]より伝えられる[[作法]]を受ける。<ruby>集会堂<rt>しゅうえどう</rt></ruby>で[[法要]]に[[随喜]]する出勤[[寺院]]が[[荘厳]]衣を被着し、<ruby>[[典謁]]<rt>てんえつ</rt></ruby>の「○〇の国○〇寺」という独特の節回しの[[調読]]によって、[[座次]]に従って整列する。そして[[門跡]]が[[式衆]]と共に古経堂より集会堂に[[昇堂]]し、その後に[[唱導師]]が続き、所定の場所に進む。「[[袈裟被着偈]]」が唱えられると、廊鐘が[[三下]]される。別席・準別席・[[式衆]]・[[先進]]・役席・内役・[[門跡]]・[[伴僧]]の順に[[御影堂]]へと進む。その後に、<ruby>好身[[法類]]<rt>よしみほうるい</rt></ruby>・[[唱導師]]・[[伴僧]]と[[大衆]](出勤[[寺院]])が順次参進。[[大衆]]一同が着座し、献香・献菓茶し、[[前伽陀]]が唱えられ、[[同音]]になってから、[[唱導師]]が[[内陣]]に進んで大師前三拝後[[門跡]]に一拝して[[登高座]]する。「[[開経偈]]」『[[阿弥陀経]]』、<ruby>[[散華]]<rt>さんげ</rt></ruby>を唱えた後に、[[唱導]]を独唱する。その後御[[諷誦]]の独唱をして恩徳を[[讃歎]]する。雑[[諷誦]]黙読、[[発願文]]を唱え、御書拝読([[選択集]]黙読)して、『[[一枚起請文]]』を[[大衆]]同和する。[[唱導師]]は心念[[説法]]し、補闕分終わって[[後伽陀]][[同音]]で[[下高座]]し、[[門跡]]に一拝して先に[[退堂]]する。[[賛念仏]]・[[念仏一会]]・「[[自信偈]]」で[[門跡]]が[[御忌]]の[[回願]]をし、付[[回向]]の後に[[授与十念]]をして[[退殿]]する。[[唱導師]]は集会堂で[[門跡]]と[[大衆]]を迎え、挨拶の拝礼をする。一八日の[[開白]][[法要]]では献華式、[[逮夜]][[法要]]後に高齢者招待祝賀会、二〇、二一日には[[吉水講]][[詠唱]]奉納[[大会]]、二二日に[[納経]][[法要]]、二三日の[[日中]][[法要]]前に[[音楽法要]]、[[日中]][[法要]]に続き[[納骨]]諸堂参拝、二五日の[[日中]][[法要]]前に[[献茶式]](供茶式)、[[日中]][[法要]]後に集会堂で満座式、[[御廟]]参拝して[[放生会]]によって[[御忌]][[大会]]が成満する。平成二三年(二〇一一)は三月一一日の東日本大震災によって、[[元祖]][[法然]][[上人]]八〇〇年[[大遠忌]][[法要]]は延期され、一〇月二日より二五日までの間に厳修された。四月一八日には<ruby>法爾<rt>ほうに</rt></ruby>[[大師号]]の奉戴報告[[法要]]を[[御忌]][[逮夜]][[法要]]の前に厳修した。 | ||
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一月二五日は[[御忌]]定めの教書伝達式、四月二日~七日は[[御忌]][[大会]]を厳修する。[[増上寺]]の[[御忌]][[大会]]の特色は[[縁山声明]]と呼ばれる[[増上寺]]特有の[[声明]]を主としたさまざまな[[法要]]と[[日中]][[法要]]の[[庭儀式]]である。今日の形式で勤めるようになったのは、明治三四年(一九〇一)四月の[[御忌]][[大会]]からで、[[唱導師]]が丁場(静岡山梨以東)で勤務するようになった。この年は一八日から二五日の間に[[結縁授戒]](一八~二二日)と[[御忌]][[法要]](二三~五日)を厳修した(『[[浄土教報]]』四三二)。翌年からは四月二三~五日に勤めた(『[[浄土教報]]』四八四)。現在、[[御忌]][[大会]]で勤めている[[法要]]は以下の通りである。四月二日の[[開白]]は[[献茶式]]、三~四日は[[詠唱]]奉納[[大会]]、五日の[[晨朝]]は阿[[弥陀]]<ruby>[[懺法]]<rt>せんぼう</rt></ruby>、[[日中]]は[[声明]][[法要]]、[[日没]]は歴代[[大僧正]]御[[年忌]]・尊宿式楽先亡追悼会。六日の[[晨朝]]は一宗[[法要]]、[[日中]]は引声[[法要]]、[[日没]]は大[[施餓鬼会]]百萬霊[[回向]]。七日の[[晨朝]]は[[宗祖降誕会]]([[音楽法要]])、[[日中]]は[[浄土法事讃]][[法要]]、[[日没]]は[[結願]]。[[日中]][[法要]]は、[[法要]]に先駆けて[[大殿]]前の庭儀台で[[増上寺]][[雅楽]]会が[[舞楽]]を奉納し、[[唱導師]]を中心として大門から練行列をする。その練行列は、[[先進]]—山旗—[[唱導師]]—木遣—寺侍—[[巡検]]—[[随喜]][[寺院]]—聖歌隊—[[百味講]]—[[稚児]]—[[会行事]]—[[式衆]]—[[会奉行]]—[[侍者]]—[[唱導師]]—大傘—[[伴僧]]—[[法類]][[随喜]][[寺院]]—[[巡検]]—[[稚児]]—総代—[[寺族]]—後詰と続く。[[大殿]]前で[[庭儀式]]をし、奏楽のなかを[[入堂]]し[[法要]]を厳修する。[[縁山声明]]は、天台[[大原]]流と全く趣を異にした関東武士風の力強い独自の旋律のものであり、元来将軍家の[[法事]]でのみ唱えるものであったが、明治期になって[[御忌会]]でも唱えられるようになった。 | 一月二五日は[[御忌]]定めの教書伝達式、四月二日~七日は[[御忌]][[大会]]を厳修する。[[増上寺]]の[[御忌]][[大会]]の特色は[[縁山声明]]と呼ばれる[[増上寺]]特有の[[声明]]を主としたさまざまな[[法要]]と[[日中]][[法要]]の[[庭儀式]]である。今日の形式で勤めるようになったのは、明治三四年(一九〇一)四月の[[御忌]][[大会]]からで、[[唱導師]]が丁場(静岡山梨以東)で勤務するようになった。この年は一八日から二五日の間に[[結縁授戒]](一八~二二日)と[[御忌]][[法要]](二三~五日)を厳修した(『[[浄土教報]]』四三二)。翌年からは四月二三~五日に勤めた(『[[浄土教報]]』四八四)。現在、[[御忌]][[大会]]で勤めている[[法要]]は以下の通りである。四月二日の[[開白]]は[[献茶式]]、三~四日は[[詠唱]]奉納[[大会]]、五日の[[晨朝]]は阿[[弥陀]]<ruby>[[懺法]]<rt>せんぼう</rt></ruby>、[[日中]]は[[声明]][[法要]]、[[日没]]は歴代[[大僧正]]御[[年忌]]・尊宿式楽先亡追悼会。六日の[[晨朝]]は一宗[[法要]]、[[日中]]は引声[[法要]]、[[日没]]は大[[施餓鬼会]]百萬霊[[回向]]。七日の[[晨朝]]は[[宗祖降誕会]]([[音楽法要]])、[[日中]]は[[浄土法事讃]][[法要]]、[[日没]]は[[結願]]。[[日中]][[法要]]は、[[法要]]に先駆けて[[大殿]]前の庭儀台で[[増上寺]][[雅楽]]会が[[舞楽]]を奉納し、[[唱導師]]を中心として大門から練行列をする。その練行列は、[[先進]]—山旗—[[唱導師]]—木遣—寺侍—[[巡検]]—[[随喜]][[寺院]]—聖歌隊—[[百味講]]—[[稚児]]—[[会行事]]—[[式衆]]—[[会奉行]]—[[侍者]]—[[唱導師]]—大傘—[[伴僧]]—[[法類]][[随喜]][[寺院]]—[[巡検]]—[[稚児]]—総代—[[寺族]]—後詰と続く。[[大殿]]前で[[庭儀式]]をし、奏楽のなかを[[入堂]]し[[法要]]を厳修する。[[縁山声明]]は、天台[[大原]]流と全く趣を異にした関東武士風の力強い独自の旋律のものであり、元来将軍家の[[法事]]でのみ唱えるものであったが、明治期になって[[御忌会]]でも唱えられるようになった。 | ||
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2018年9月17日 (月) 12:46時点における最新版
ぎょきえ/御忌会
法然の忌日法会のこと。各総・大本山をはじめ、全国の浄土宗寺院で営まれている。『法要集』には、御忌会および御忌会別式の差定が示されている。
[知恩院]
現在知恩院では、一月一八日に御忌定式が大方丈の仏間(鶴の間)で行われ、門跡より唱導師と逮夜導師の辞令が授与される。一月二五日は御祥当忌月法要を勢至堂で修す。四月一八日、鳳詔頂戴式が大方丈仙人の間(三段の間)で行われ、唱導師は法要に先立って「大永の御忌鳳詔」を拝戴する儀式を行う。同日の開白法要では逮夜法要に先立って、御開扉作法と献華式が行われる。知恩院の耆宿が門跡に礼拝した後に宮殿前に進み、洒水作法をして宮殿の扉を開いてから逮夜法要を厳修する。逮夜法要では、式衆と出勤寺院が笏念仏行道する。知恩院における御忌会の日中法要の特色は、中央高座で「唱導」と「御諷誦」を唱える唱導師とその後方の高座に門跡が座して厳修することである。法要前には、まず唱導師が門跡に挨拶する導師拝礼を行い、御影堂裏で西に向かって阿弥陀堂遥拝、東へ向かって御廟遥拝し阿弥陀仏と祖師に唱導を勤める挨拶をする。また、西に向かうのは、御忌会の無事円成祈念に鎮守社を拝し(知恩院日鑑)、御忌の詔勅を賜った後柏原天皇に礼を尽くし御所遥拝するためとする説もある。二五日の御当日、導師は知恩院に伝わる俊乗房重源将来雄誉霊巌遺物の伝衣の袈裟を門跡より伝えられる作法を受ける。集会堂で法要に随喜する出勤寺院が荘厳衣を被着し、典謁の「○〇の国○〇寺」という独特の節回しの調読によって、座次に従って整列する。そして門跡が式衆と共に古経堂より集会堂に昇堂し、その後に唱導師が続き、所定の場所に進む。「袈裟被着偈」が唱えられると、廊鐘が三下される。別席・準別席・式衆・先進・役席・内役・門跡・伴僧の順に御影堂へと進む。その後に、好身法類・唱導師・伴僧と大衆(出勤寺院)が順次参進。大衆一同が着座し、献香・献菓茶し、前伽陀が唱えられ、同音になってから、唱導師が内陣に進んで大師前三拝後門跡に一拝して登高座する。「開経偈」『阿弥陀経』、散華を唱えた後に、唱導を独唱する。その後御諷誦の独唱をして恩徳を讃歎する。雑諷誦黙読、発願文を唱え、御書拝読(選択集黙読)して、『一枚起請文』を大衆同和する。唱導師は心念説法し、補闕分終わって後伽陀同音で下高座し、門跡に一拝して先に退堂する。賛念仏・念仏一会・「自信偈」で門跡が御忌の回願をし、付回向の後に授与十念をして退殿する。唱導師は集会堂で門跡と大衆を迎え、挨拶の拝礼をする。一八日の開白法要では献華式、逮夜法要後に高齢者招待祝賀会、二〇、二一日には吉水講詠唱奉納大会、二二日に納経法要、二三日の日中法要前に音楽法要、日中法要に続き納骨諸堂参拝、二五日の日中法要前に献茶式(供茶式)、日中法要後に集会堂で満座式、御廟参拝して放生会によって御忌大会が成満する。平成二三年(二〇一一)は三月一一日の東日本大震災によって、元祖法然上人八〇〇年大遠忌法要は延期され、一〇月二日より二五日までの間に厳修された。四月一八日には法爾大師号の奉戴報告法要を御忌逮夜法要の前に厳修した。
【資料】『御忌大会法則』(知恩院式衆会、一九九九)、『元祖法然上人八百年大遠忌法要差定』(知恩院、二〇一〇)、『元祖法然上人八百年大遠忌法要次第』(知恩院・同年)、『元祖法然上人八百年大遠忌浄宗会法要差定』(浄宗会事務局、知恩院、二〇一一)
【参考】『知恩院史』(知恩院、一九三七)、『古都巡礼 京都 一九 知恩院』(淡交社、一九七七)
【執筆者:南忠信】
[増上寺]
一月二五日は御忌定めの教書伝達式、四月二日~七日は御忌大会を厳修する。増上寺の御忌大会の特色は縁山声明と呼ばれる増上寺特有の声明を主としたさまざまな法要と日中法要の庭儀式である。今日の形式で勤めるようになったのは、明治三四年(一九〇一)四月の御忌大会からで、唱導師が丁場(静岡山梨以東)で勤務するようになった。この年は一八日から二五日の間に結縁授戒(一八~二二日)と御忌法要(二三~五日)を厳修した(『浄土教報』四三二)。翌年からは四月二三~五日に勤めた(『浄土教報』四八四)。現在、御忌大会で勤めている法要は以下の通りである。四月二日の開白は献茶式、三~四日は詠唱奉納大会、五日の晨朝は阿弥陀懺法、日中は声明法要、日没は歴代大僧正御年忌・尊宿式楽先亡追悼会。六日の晨朝は一宗法要、日中は引声法要、日没は大施餓鬼会百萬霊回向。七日の晨朝は宗祖降誕会(音楽法要)、日中は浄土法事讃法要、日没は結願。日中法要は、法要に先駆けて大殿前の庭儀台で増上寺雅楽会が舞楽を奉納し、唱導師を中心として大門から練行列をする。その練行列は、先進—山旗—唱導師—木遣—寺侍—巡検—随喜寺院—聖歌隊—百味講—稚児—会行事—式衆—会奉行—侍者—唱導師—大傘—伴僧—法類随喜寺院—巡検—稚児—総代—寺族—後詰と続く。大殿前で庭儀式をし、奏楽のなかを入堂し法要を厳修する。縁山声明は、天台大原流と全く趣を異にした関東武士風の力強い独自の旋律のものであり、元来将軍家の法事でのみ唱えるものであったが、明治期になって御忌会でも唱えられるようになった。
【参照項目】➡声明三
【執筆者:石田祐寛】
[金戒光明寺]
二六世琴誉盛林代より大々的に勤められることになった。御忌定式は一月二五日。毎年四月二二日より二五日まで奉修し、本山縁故の幼稚園児による献灯献華に始まり、宝蔵より出された『一枚起請文』(二三、二四日)、「鏡の御影」(二五日)の内拝を含んだ声明法要である。唱導師が、大殿東側から入堂し東側から退堂するのは、二人導師であるためである。諷誦は鴨川の古式を伝えた曲調である。
【参考】『黒谷誌要』(浄全二〇)
【参照項目】➡御忌定式
【執筆者:清水秀浩】
[知恩寺]
百万遍知恩寺の御忌は現在、御忌唱導師お定め式を例年一月一二日に行い、四月二二日の逮夜法要で開白、二五日まで行われる。晨朝法要には笏念仏行道、日中法要には前伽陀、開経偈、阿弥陀経、散華、唱導、後伽陀、百万遍念仏数珠繰り、別回向と次第して勤められる。逮夜法要は引声阿弥陀経法要などを行っている。『百万遍知恩寺誌要』によれば、一九世慶竺が御忌法式を定め諷誦法則を作り、現在の御忌の形式を定めたこと(浄全二〇・三一四上)が分かる。また同書にある寛政六年(一七九四)の「御忌法事式」(五四世祐水代)の記録(浄全二〇・三三六上)には、当時の御忌が四箇法要で勤められていたこと、御忌の説法が『選択集』の各章に基づき行われ、現存の記録から明治時代まではそれが継続されていたことなどが知られる。
【執筆者:大澤亮我】
[清浄華院]
一月二三日は御忌定式。四月二一~二三日に御忌大会を一日一座厳修している。一日目・二日目は唱讃導師による唱導、三日目は法主による親修となっている。唱讃導師は唱導のみを行うのではなく、法主代理として御忌法要の導師を勤めているということから、その僧階に関係なく緋衣を被着して払子を持ち、高座に登ることとなった。そのため、法要の前伽陀中に法主に続いて唱讃導師が入堂する。法主が前机の正面で焼香した後、唱讃導師は執事長の呼び出しによって、法主より払子を受け取る。この一連の作法によって唱讃導師が法主代理としての大任を果たすことになる。平成二四年(二〇一二)の八〇〇年御遠忌より伝衣作法が復興された。この作法は一〇世等熈所用の袈裟を復元して江戸時代に行われていたもので、誦経中に伴僧が導師の袈裟の上に伝衣を通肩にしてかける。
【執筆者:畦昌彦】
[善導寺]
大本山善導寺の御忌は、一月二五日に修される一日一座の法会であり、日常勤行式に半斎供養と御忌和讃を適所に配した次第で行われる。また昭和一〇年代までは一月一八日から七日間の別時念仏会が修され、二五日には雅楽白柱、鈸、雅楽青海波、惣礼、雅楽五常楽、四奉請、阿弥陀経、礼讃行道、法談の法要次第で行われていたことが記録されている。
【執筆者:金子泰蔵】
[光明寺]
大本山光明寺御忌会は、毎年一月二五日に勤修。写経会を行い、参拝者粥供養を施し、法話に続き御忌会法要を行う。式次第は日常勤行式に基づいた一座の法要で、名号札を授けている。
【執筆者:三浦正英】
[善光寺大本願]
正月二五日と二月二五日の二回執行している。一山の正信坊は本尊が法然自刻の像と伝えられ、法然堂と称している。かつては、正月二四日正信坊に一山が集合して逮夜法要、翌二五日朝御忌法要を勤めた後、善光寺本堂に御影を奉安し、大本願上人導師のもとに御忌法要を勤めた。現在は正信坊での法要は行われていない。そして二月二五日大本願本堂で厳修している。平成一〇年(一九九八)から四月一一日に長野教区と共催の御忌大会が同教区青年会が中心となって執り行われている。唱導師は同教区内から選出している。
【執筆者:若麻績侑孝】