本尊
提供: 新纂浄土宗大辞典
ほんぞん/本尊
礼拝・信仰の対象となる尊像。また寺院の本堂に安置される仏像、あるいは個人によって信仰される仏のこと。浄土宗では阿弥陀仏を本尊とし(宗綱第五条)、これには坐像と立像がある。
[阿弥陀仏像の形式]
阿弥陀仏の坐像は印契によって五種に分類される。すなわち、①施無畏与願印②説法印③定印④来迎印⑤九品印の形式がある。一方、阿弥陀仏の立像は基本的には来迎印を結び、その遺例として、奈良西方寺や京都遣迎院などに快慶作の来迎印阿弥陀仏立像が計九体現存している。これら九体の三尺弥陀立像は正治元年(一一九九)から嘉禎二年(一二三六)までの間に集中して制作されている。
[坐像と立像]
平安中期までの阿弥陀仏像は坐像の作例が多く、それ以降は立像の作例が目立つ。この時期は丁度、法然の活躍期と合致している。すなわち、法然は『逆修説法』一七日に「深く往生極楽の志あらん人は、来迎引接の形像を造り奉りて、則ち来迎引接の誓願を仰ぎたてまつるべきものなり」(昭法全二三四)といい、来迎引接の阿弥陀仏立像を造像すべきことを勧めており、晩年の『没後遺誡文』には信空に「本尊 三尺の弥陀立像 定朝」(昭法全七八四)を付属したと記されている。さらに法然およびその直弟子と深い関わりのある阿弥陀仏立像には左の三体が現存している。すなわち、①西山派西福寺蔵法然念持仏(源智付属)、②源智上人造立阿弥陀如来立像、③浄土寺蔵弥陀三尊立像(重源発願)である。以上のことから法然が所持し、門弟に勧説した阿弥陀仏像は立像であったと推定できよう。また、絵巻物である『四十八巻伝』に描かれる阿弥陀仏像を検討すると、臨終行儀として描かれた阿弥陀仏像が二二図、臨終に来迎する阿弥陀仏像が五図、平生に来現する阿弥陀仏像が三図、本尊として描かれた阿弥陀仏像が九図で、合計三九図の阿弥陀仏像はすべて立像で描かれている。さらに来迎図を検討すると、平安時代作とされる高野山の聖衆来迎図は坐像で描かれている。彫像よりも少し遅れて、一三世紀前半に初めて立像の阿弥陀来迎図が出現し、一四世紀以降は立像系来迎図が坐像系来迎図を圧倒するようになる。その代表が知恩院蔵「阿弥陀二十五菩薩来迎図」(早来迎、国宝)である。
[坐像から立像へ]
一二世紀中頃以降、日本の仏像造像史上の流れとして、阿弥陀仏像が坐像から立像へと傾斜していった教学上の根拠として、①阿弥陀仏のもつ活動性②阿弥陀仏のもつ親近性との二つの理由がある。第一の阿弥陀仏のもつ活動性とは立撮即行とよばれ、仏が立ったままの状態から、いつでも直ちに救済に向かう、弥陀の大悲をあらわす。第二の仏凡の親近性とは、善導が『観経』第九真身観の「光明遍照」の経文を解釈して、これに三義ありとし、その第一義親縁釈において、念仏すれば、仏の三業と衆生の三業とが親密な関係になると述べる釈文にもとづく。これを受けて法然は阿弥陀仏を、より具象的で、かつ人間的な仏ととらえた上で、阿弥陀仏と念仏を称える衆生とが親子のごとき関係を結び、親しくむつまじく、触れあい、呼応しあう、としている。このような仏凡の呼応関係は、阿弥陀仏が三昧定中で、端坐したままの状態では実現し得ないものである。この二つの理由から、阿弥陀仏像が坐像から立像へと傾斜していったと考えられる。
[他宗派の本尊]
他宗派ではそれぞれに本尊が説かれる。例えば、真言宗では自己自身をあらわす無相の本尊と、自己のほかに別に立てる有相の本尊との二種を説く。日蓮宗では大曼荼羅をあらわす法本尊と、久遠実成の釈迦像をあらわす仏本尊との二種類を説く。さらに真宗では阿弥陀一尊の形像本尊と、阿弥陀仏の名号を本尊とする名号本尊との二種が説かれている。
【参考】石井教道『改訂増補 浄土の教義と其教団』(富山房書店他、一九七二)、廣川堯敏「浄土宗の本尊論序説—法然上人及び門下の阿弥陀仏観—」(『仏教文化研究』四六、二〇〇二)
【執筆者:廣川堯敏】