快慶
提供: 新纂浄土宗大辞典
かいけい/快慶
—嘉禄三年(一二二七)頃。平安時代後期から鎌倉時代初期にかけて活躍した仏師で運慶の父康慶の弟子と考えられる。記録上の初出は、寿永二年(一一八三)に運慶が発願した『法華経』八(「運慶願経」)の奥付にその名が認められる。その作品は端正な表情、穏やかな着衣形式、精緻な截金文様が施されている点などにその特色が認められる。初期の作品としては文治五年(一一八九)作の興福寺旧蔵弥勒菩薩像(現・ボストン美術館蔵)、建仁元年(一二〇一)の東大寺僧形八幡神像(国宝)などが知られる。治承四年(一一八〇)の平重衡による東大寺焼き討ち後の復興造営にあたっては、大勧進俊乗房重源と親交を結び、安阿弥陀仏と名乗りその勧進事業に深く関わった。建久年間(一一九〇—一一九九)には法然の弟子証空の創建にかかる京都遣迎院阿弥陀如来像(国重要文化財)などを造立している。同じく康慶門下の運慶は東大寺南大門金剛力士像(国宝)などにおいて協働しているが、運慶が鎌倉幕府に関わる造像を相次いで行ったのに対して、快慶は重源が各地に開いた兵庫播磨浄土寺、三重新大仏寺や東大寺、高野山などと縁の深い場所で造仏を行った。重源の没後は天台座主慈円、高山寺明恵のほか、定心房感聖、法蓮房信空など法然の高弟達との関係が近年確認された(『東寿院阿弥陀如来像像内納入品資料』)。また文暦二年(一二三五)弟子の行快の造立した滋賀・阿弥陀寺阿弥陀如来像(国重要文化財)には法然門下の諸行本願義系の人々との結縁が確認されている。快慶が多数造立した来迎印を結ぶ阿弥陀如来像は、後に浄土宗並びに真宗の本尊像の祖形になったと考えられる。近年、京都極楽寺(浄土宗)の阿弥陀如来像(国重要文化財)の像内納入品資料に、嘉禄三年(一二二七)四月以前に快慶が亡くなっていたことを示す記事が確認されている。東大寺復興造営を終えた後は、初期浄土宗教団に関わる造仏活動に弟子の行快とともに参加していたものと考えられる。また明遍、澄憲、聖覚といった法然ゆかりの人々とも親交を持っており、そうした人々との関係も含めて浄土宗教団における人師の動向を探る上で重要な意味を持つ仏師と考えられる。法然の一周忌に当たり造立された浄土宗所有の源智上人造立阿弥陀如来立像(国重要文化財)、証空ゆかりの京都大念寺阿弥陀如来像(国重要文化財)も快慶工房の作品として知られる。
【参考】毛利久『仏師快慶論』(吉川弘文館、一九六一)、青木淳『東寿院阿弥陀如来像像内納入品資料』(国際日本文化研究センター、二〇〇五)
【執筆者:青木淳】