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極楽寺

提供: 新纂浄土宗大辞典

ごくらくじ/極楽寺

山形県米沢市相生町。菩提往生院。山形教区№一。天正二年(一五七四)一蓮社良空開山良空は越後国生まれで大沢円通寺で修学。はじめ越後に創建されたが、上杉氏の転封に従い慶長六年(一六〇一)米沢へ移る。寺領一〇〇石は上杉氏の減封後二五石となる。出羽国触頭ふれがしらの一寺。文政七年(一八二四)と大正六年(一九一七)の二度の大火で類焼するも再建。上杉家内室の菩提寺で上杉定勝母桂岩院、キリスト教信者山浦玄蕃(桂岩院弟)の墓がある。


【資料】『浄土宗寺院由緒書』中(『増上寺史料集』六)


【参考】宇高良哲『近世関東仏教教団史の研究』(文化書院、一九九九)


【執筆者:中野真理子】


新潟県三条市本町。法王山西方院。新潟教区№三七。開山は、称誉宗感(—一五九一)。天正二年(一五七四)起立。元知恩院末。『諸檀林並拾七箇国触頭ふれがしら寺院名帳』『本山触頭牒』によると、越後国触頭七七箇寺の一つに挙げられる。


【資料】『浄土宗寺院由緒書』中(『増上寺史料集』六)


【参考】宇高良哲『近世関東仏教教団史の研究』(文化書院、一九九九)


【執筆者:渋谷康悦】


富山県高岡市博労町。安養浄土院。富山教区№一。観応元年(一三五〇)に、後醍醐天皇第八皇子の仏眼明心法親王が開創。もとは牧野にあり、時宗寺院であったが、七世良全の時代に浄土宗改宗し、知恩院別格寺院の待遇を受けた。その後、天正年間(一五七三—一五九二)に前田利長より守山に寺領を賜るも、慶長二年(一五九七)、前田利長が守山から富山に移城する際に極楽寺も移転した。だが、同一四年に富山城が焼失し前田利長が高岡城に移城すると、極楽寺も従い、高岡に寺領を賜る。翌一五年に焼失したが、元和二年(一六一六)、前田利常より五千坪の土地を与えられ再興した。知恩院所蔵の史料では、元禄六年(一六九三)には越中国の触頭ふれがしら寺院だったことがわかる。


【資料】『浄土宗寺院由緒書』中(『増上寺史料集』六)、『寺社由来書上』、『加越能寺社由来』、『加賀藩史料』(財団法人前田育徳会、一九七〇、復刻版)、『蓮門精舎旧詞』二八


【参考】『富山県史』通史編Ⅱ中世(富山県、一九八四)、『高岡市史』上(高岡市、一九五九)、宇高良哲「浄土宗の触頭制度について」(『法然浄土教の綜合的研究』山喜房仏書林、一九八四)


【執筆者:高田光順】


金沢市寺町安養報土院。石川教区№一三。富山県高岡市の安養極楽寺の分流。後醍醐天皇第八皇子の仏眼明心法親王が開創。開山は暫誉天月。慶長四年(一五九九)に前田利長が金沢城に入城の際、以前に越中国守山で帰依していた天月を金沢に招請した。その後、元和元年(一六一五)前田利常が富山より金沢に移城の際、天月が現在地を拝領し当寺を建立した。


【資料】『浄土宗寺院由緒書』上(『増上寺史料集』五)、貞享二年(一六八五)『寺社由来書上』(『加能越寺社由来』上)


【参考】『金沢市史』(金沢市役所、一九七三)、『高岡市史』上(高岡市、一九五九)、『加賀藩史料』(財団法人前田育徳会、一九七〇、復刻版)


【執筆者:高田光順】


京都市西京区桂久方町。京都教区№一七五。捨世派の祖の称念が開いた寺院。天文年間(一五三二—一五五五)に、中路一岐が称念の教えに帰依し、称念開山と仰ぎ、下桂に寺院を建立したのをはじまりとする。


【資料】『浄土宗寺院由緒書』下(『増上寺史料集』七)、『称念上人行状記』上(浄全一七・六五一上~二下)


【執筆者:角野玄樹】


神戸市北区有馬町。寂静山伝法院。兵庫教区№一二一。推古天皇の時代の創建、建久二年(一一九一)二月に現在地に移され寺号極楽寺とした。一六世紀はじめ願誉順公のとき、法然の真筆二祖対面御影宗宝)が伝来された。この地は法然勝尾寺に住していたとき温泉に浴し、寂静の地として念仏三昧を修してから極楽地と呼ばれていた。万治二年(一六五九)厭求が母公孝養のため一〇年間とどまり念仏化導の道場となった。現在の本堂庫裡は、安永三年(一七七四)有馬大火のために焼失したものを、同九年に当寺の弟子であった金戒光明寺四五世神誉感霊が再建したもの。


【資料】『蓮門精舎旧詞』一一(続浄一八)


【参考】『浄土宗兵庫教区寺院名鑑』(一九七四)


【執筆者:髙橋徹真】


島根県大田市大森町。無量山信広院。石見教区№一五。元清浄華院末。永禄年間(一五五八—一五七〇)毛利元就より地所を拝領し、専誉良休によって建立。元亀二年(一五七一)、「極楽寺」という勅額を授かった。以来数回の再建を行うが、昭和一四年(一九三九)の火災で堂宇を焼失。同一八年、現在の地にあった安立寺と合併し現在の堂宇となる。開山良休、二代良安、三代良随の三上人はそれぞれ檀林飯沼弘経寺伝法を受け、清浄華院住職を務めた。初代石見銀山奉行大久保長安位牌が安置されている。


【資料】『浄土宗寺院由緒書』上(『増上寺史料集』五)、『蓮門精舎旧詞』四六(続浄一九)


【執筆者:本田行信】


島根県浜田市三隅町湊浦。清水山松林院。石見教区№五〇。知恩院末。開山良忠。はじめ良忠生誕地である三隅庄向野田村杉森(浜田市三隅町向野田)に存した観音堂を福恩寺と号した。元亀元年(一五七〇)の戦火で堂宇のほとんどを焼失し、元和元年(一六一五)霊巌によって移築中興開山がなされた際に極楽寺と改称した。元禄一一年(一六九八)の火災により堂宇、諸記録ことごとく焼失。その後文化二年(一八〇五)に現在地に移転再建された。


【資料】『浄土宗寺院由緒書』中(『増上寺史料集』六)、『蓮門精舎旧詞』三〇(続浄一九)


【参考】大橋俊雄『三祖良忠上人』(神奈川教区教務所、一九八四)、『三隅町誌』(三隅町誌編さん委員会、一九七一)


【執筆者:本田行信】


福岡県宮若市宮田。光明摂取院。福岡教区№七六。聖光開山と伝わり、聖光明星寺に住していたとき、遊化説戒の拠点としていた寺。当時は大蔵道場と呼ばれ、天台の霊蹟であった。後に堂宇は荒廃し、弘治・永禄年間(一五五五—一五七〇)に再建されるも元亀年間(一五七〇—一五七三)に出火し、什物は焼失。境内には黒田長政の室、大涼殿徳誉尼公大姉の墓および長政の「殺生禁断」の碑がある。


【資料】『浄土宗寺院由緒書』下(『増上寺史料集』七)、『聖光上人伝』


【参考】藤堂俊章『聖光上人』(善導寺、一九九二)


【執筆者:郡嶋昭示】


一〇

神奈川県鎌倉市極楽寺霊鷲山りょうじゅせん感応院。真言律宗寺院で、奈良西大寺の末寺。北条重時が正元元年(一二五九)に建立したと伝える。重時の三回忌には、浄土宗西山派証空門下の宗観が導師を勤めており、当初は浄土系の寺であったとされる。文永四年(一二六七)に真言律僧の忍性にんしょう住持となってから飛躍的に発展し、七堂伽藍をそなえて尼寺を含む一〇〇を超える塔頭たっちゅうを擁する大寺院となった。忍性はハンセン病患者や貧民の救済に尽力したため、当時の極楽寺は療病院から馬の病舎まで備えていた。建治元年(一二七五)火災にあうが復興し、弘安四年(一二八一)再度の蒙古襲来の時に、忍性が護国法を修したことから御願寺ごがんじとなった。それ以後は徐々に衰えるが、元弘三年(一三三三)後醍醐天皇の勅願所となって寺領安堵あんどされた。天正一九年(一五九一)に徳川家康から朱印を与えられるも衰退し、一六〇〇年代半ばには恵性が再興に努めた。現在の極楽寺は、中世の仁王門から四王門の部分にあたる。


【執筆者:西村玲】