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霊巌

提供: 新纂浄土宗大辞典

れいがん/霊巌

天文二三年(一五五四)四月八日—寛永一八年(一六四一)九月一日。檀蓮社雄誉、あざなは松風。知恩院三二世、深川霊巌寺開山生実おゆみ大巌寺三世。駿河国沼津に今川家一族沼津土佐守氏勝の三男として誕生。幼名は友松。一一歳で沼津浄運寺増誉につき得度し肇叡と称す。一五歳で生実大巌寺道誉貞把の室に入り、霊巌改名。天正二年(一五七四)貞把より五重宗脈を相承し、貞把が没すると安誉虎角に従い、同七年に戒脈、同一五年六月に璽書相承。同年八月大巌寺住職となる。同一八年故あって大巌寺を辞し東海道に旅立ち、同一九年南都に霊巌寺(現・霊巌院)を建立。文禄元年(一五九二)山城国宇治に称故寺を建て、相楽滝鼻に西光寺を開創。伏見城に滞在していた徳川家康より大巌寺再住を命じられる。同二年大巌寺に戻り、上総国五井領主松平家信の援助を受けて堂宇改築に着工。この年に字を松風とする。慶長八年(一六〇三)再び大巌寺を辞し、伊豆大島、安房を巡教。安房国主里見義康の帰依により大網に大巌院を創建。同一八年内藤政長の請いにより上総国佐貫の善昌寺に転住した。元和元年(一六一五)八月祖跡巡拝に旅立ち、美作誕生寺や筑後善導寺などを参拝して、同四年入洛し知恩院祖廟に詣でた。寛永元年(一六二四、一説に元和七年)江戸に向井将監の下屋敷に当たる沼地を埋め立てて霊岸島を築き霊巌寺を創建し、同六年に諸堂宇は落成。同年六月徳川家光の命により知恩院住職となり同年一〇月入院。同八年播磨国姫路城主本多忠政の葬儀の導師を勤め、同年一〇月院宣により仙洞御所にて法問を行う。同一〇年正月知恩院が火災に遭うと、参府して家光から諸堂再建を命ぜられた。同一三年に大洪鐘を鋳造し、同一八年正月に諸堂造営が成就すると、同年三月御礼のため江戸へ下向。同年六月に登城し法談を行う。九月一日江戸霊巌寺にて没。世寿八八歳。霊巌開山・中興した寺院は極めて多く、江戸英信寺、安房保田別願院、同検儀谷けぎや大勝院、上総五井理安寺(現・守永寺)、同湊湊済寺、同小糸三経寺、同下湯江法巌寺、同金谷本覚寺、同姉崎最頂寺、下総生実おゆみ大覚寺、同千田称念寺、伊勢赤桶あこう心光寺、同深野来迎寺、同山田霊巌寺、伯耆穴鴨大雲寺、同赤碕専称寺、出雲乃木別願院、同松江極楽寺、備前岡山霊巌寺などがある。


【資料】源誉霊碩『霊巌和尚伝記』、転誉存統『道本山開山雄誉上人伝記』、『霊巌上人略伝』(浄全一七)、『総系譜』『浄源脈譜』『華頂誌要』(以上、浄全一九)、『生実大巌寺志』『深川霊巌寺志』(共に浄全二〇)


【参考】『安房の人物シリーズ⑥雄誉霊巌』(館山市立博物館、二〇〇〇)、大橋俊雄『霊巌寺史』(霊巌寺、一九八一)、『知恩院史』(知恩院、一九三七)、後藤真雄『雄誉霊巌上人伝』(円通寺、一九七九)


【執筆者:石川達也】