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明恵

提供: 新纂浄土宗大辞典

みょうえ/明恵

承安三年(一一七三)一月八日—寛喜四年(一二三二)一月一九日。明恵高弁。成弁。栂尾とがのお上人。幼名薬師。『摧邪輪』ならびに『摧邪輪荘厳記』を著して、『選択集』の内容および当時の念仏宗浄土宗)のあり方を批判した。紀州有田郡石垣庄に生まれる。父は平重国、母は湯浅宗重の娘。治承四年(一一八〇)に相次いで父母を亡くし、母の妹の夫・崎山良貞に養育された。崎山の地は母方湯浅氏の本拠である湯浅庄と距離的に近く、生涯を通じて湯浅氏と深い関係を保った。養和元年(一一八一)、叔父上覚房行慈(文覚もんがくの高弟)に託されて高雄に登り、ここで上覚から『俱舎頌』、仁和寺尊実から真言密教、景雅から華厳、尊印から『悉曇字記』等を学び、文治四年(一一八八)、上覚に就いて東大寺具足戒を受け、東大寺尊勝院聖詮から『俱舎論』を学んだ。この頃上覚から「伝法灌頂」を、建久二年(一一九一)には興然から金剛界・胎蔵界を伝授された。同四年に東大寺尊勝院弁暁からの「公請」の求めに応じて東大寺と高雄を往還したが二年程で辞め、同六年には修行専念するため高雄を出て紀州白上へ登った。この頃、喜海・定真等が同学となる。また建久の頃から多くの夢相を続けて見るようになり、『夢記』として記録した。同九年、文覚の請いに応じて高雄へ帰還するが、その後も高雄と紀州とを往来し、『華厳唯心義』他の著作、印度渡航計画とその中止、解脱貞慶との対面、諸法会の奉修等、多忙な日々を送った。建永元年(一二〇六)、後鳥羽院より栂尾(神護寺別所)に高山寺を賜り、建暦二年(一二一二)一一月に『摧邪輪』、翌建暦三年(一二一三)六月に『摧邪輪荘厳記』を著した。同二年より、「三時三宝礼」を始行し、翌三年にかけて多くの「講式」を著し、さらに翌四年にかけて『三時三宝礼釈』と『三時三宝礼功徳義』を著した。また李通玄の書によって「仏光観」を自行の中心とし、並行して、同法に教法・修法の伝授等を行った。その後、承久の乱(承久三年〔一二二一〕)によって刑死した中御門宗行妻等のために善妙寺高山寺別院として開創し、嘉禄元年(一二二五)四月、初めての「仏生会」を修し、同年六月から説戒を始めた。この説戒はこの後、毎月一五日と晦日の二回行われたが、寛喜二年(一二三〇)二月頃より「不食の病」を患い、弟子説戒を代行することもあった。同四年一月一九日、禅堂院にて寂す。明恵の一生は教学と修法の研鑽に費やされ、貞慶証空・慶政等の多くの学僧達とも談義修法を通じて交流がなされた。また後鳥羽院、北白河院、九条兼実九条道家藤原定家西園寺公経等の公家等から帰依を受けた。


【資料】『大日本史料』五篇之七、高山寺典籍文書装具調査団編『明恵上人資料』一~五、同編『高山寺古文書』


【参考】村上素道『栂尾山高山寺明恵上人』(高山寺、一九二九)、奥田勲『明恵 遍歴と夢』(東京大学出版会、一九七八)、田中久夫『明恵』(新装版、吉川弘文館、一九九七)


【参照項目】➡摧邪輪摧邪輪荘厳記夢記


【執筆者:米澤実江子】