操作

光明寺

提供: 新纂浄土宗大辞典

こうみょうじ/光明寺

神奈川県鎌倉市材木座(乱橋材木座)。天照山蓮華院。浄土宗大本山関東十八檀林の一つ。関東における浄土宗発展の根拠地で、もと関東総本山といわれ、僧侶教育の根本道場であった。下総国で活躍を続けていた良忠は、檀越だんのつ椎名八郎および荒見弥四郎との間に経済的な不和を起こして当地を去り、正元元年(一二五九)頃、鎌倉大仏勧進職にあった浄光を訪ねて鎌倉に入った。浄光は一宇を与えて良忠を住まわせたが、やがて北条氏の一族大仏おさらぎ朝直の帰依を受け、佐介さすけやつに建立された悟真寺に入り、悟真寺房地および武蔵国鳩井(埼玉県川口市)の免田を寄進されて経済的にも安定し、活発な布教活動を行うようになった。名声は広く伝わり、京都から木幡派良空一条派然空らが鎌倉に来て教えを受けた。文永九年(一二七二)良忠は大病をし、比叡山極楽房で修行中の良暁を鎌倉に呼んで所領を譲り、快復後は自分のもとで修行させ、後継者とした。建治二年(一二七六)良忠然空らの招請によって上洛するが、檀越時遠の諫止かんしによって良暁は鎌倉にとどまり、基礎をかためた。弘安一〇年(一二八七)良忠入寂後、良暁悟真寺を中心に教線の拡張を計ったが、正中二年(一三二五)頃には蓮華寺と寺名を改めた。良暁ののち、定慧良順了専と続くが、このころには関東の浄土教が隆盛となり、やがて蓮華寺は他の寺院の興隆が著しかったことから、本家であることを主張するまでになった。また、理由は明らかでないが、九世祐崇のときになると光明寺と寺名を改め、佐介ヶ谷から現在地に移った。そして明応四年(一四九五)四月二一日、後土御門天皇から綸旨りんじを賜り、光明寺は勅願所となり、代々の住持紫衣を着すことが許可になった。このとき参内した祐崇は、後土御門天皇から『阿弥陀経』を賜り、さらに十夜法要の興行を許可された。こうして光明寺は関東の名刹となり、鎮西流白旗派の本拠として重要な位置をしめたが、やがて衰微していった。しかし天正一八年(一五九〇)四月、豊臣秀吉から禁制をもらい、慶長二年(一五九七)には関東本山として知恩院尊照から認められ、寺格としては関東の諸寺院の最高位となった。しかし徳川家康増上寺菩提寺としたことと、存応の著しい活躍によってその地位は増上寺に奪われるようになった。

一七世紀の中頃になると、内藤氏(日向国延岡城主・陸奥国湯長谷ゆながや領主)が檀越となり、義概のとき、江戸霊巌寺にあった位牌堂および石塔光明寺に移し、寺領一五〇石を寄進、ついで万治二年(一六五九)五〇石を加増して二〇〇石とした。その他旗本はたもと衆も多く檀越となり、寺宝なども寄進を受けたらしい。『鎌倉光明寺志』によれば、一七世紀のはじめには学寮が八十余宇、一九世紀のはじめ頃は、本堂阿弥陀堂・大方丈祈禱堂・三門・外門・勝手門・経蔵鎮守社・庫裡・茶間・玄関・小方丈・休勤窟・処静間・幹事席・長廊下・地蔵窟・鐘閣など多くの建造物があり、末寺も一時六二箇寺あったという。しかし、大正一二年(一九二三)関東大震災のときには大方丈庫裡二尊堂・経蔵が全潰し、本堂開山堂は大破損を受けたが復興に尽力、現在は修復なった本堂開山堂大聖閣・書院方丈鐘楼山門総門などがある。寺宝には、奈良當麻寺に伝わる浄土変相図当麻曼陀羅の織成伝説を描いた国宝「当麻曼荼羅絵巻」二巻、国重要文化財としては当麻曼荼羅図一幅、浄土五祖絵伝一巻、十八羅漢および僧像一九幅がある。また宗宝に指定されている記主禅師像、記主禅師御影、『伝通記』一五巻、『決疑鈔』五巻、『浄土述聞見聞』一巻、『阿弥陀経』などがあり、北魏・南岳慧思が用いたという竹布九条袈裟は、法然から代々伝えられて現存する珍しいもの。その他浄土宗史の上に貴重な古文書類がある。年中行事としては一〇月一二日より一五日まで行われる十夜法要と七月六日に行われる開山忌が有名。ことに十夜法要は現在浄土宗で行われている十夜法要の初めとなったもので、昔から関東三大十夜の一つといわれ、引声阿弥陀経を厳修することが特色。


【資料】『鎌倉光明寺文書』、『鎌倉光明寺志』


【参考】『鎌倉市史』(史料篇三・社寺篇)、玉山成元「中世東国における鎌倉光明寺の位置」(『仏教史研究』五、一九七一)【図版】巻末付録


【参照項目】➡関東十八檀林


【執筆者:宇高良哲】


秋田市旭北寺町。二七日山釈迦堂矍曇院。秋田教区№四。弘長二年(一二六二)北条時頼の開創。諸国廻国中の時頼が秋田郡土崎湊納坂に来て、唐示前善如婦人の二七日忌追善釈迦堂を建立し、守本尊釈迦如来を安置。のち岌然ぎゅうねんが再興したと伝える。その後佐竹氏が常陸から出羽秋田へ転封し久保田城築城後、城下(現在地)に移ったと考えられる。明治一九年(一八八六)の火災で堂舎は大破したが、再建された。


【資料】『浄土宗寺院由緒書』中(『増上寺史料集』六)


【執筆者:中野真理子】


東京都大田区鵜の木。大金山宝幢院。東京教区№三九〇。貞永元年(一二三二)に証空によって起立され、二世は良忠三世良暁。寺伝では行基創建、空海再建とする。関東弘通念仏最初の道場とされる。木造四天王立像(康知作)は都有形文化財。境内には荒塚と呼ばれる古墳があり、墓地からは多くの板碑が出土している。


【資料】『浄土宗寺院由緒書』下(『増上寺史料集』七)、明治五年『浄土宗鎮西一派本末寺院明細帳』(東京都公文書館蔵)


【参考】『環8光明寺地区遺跡調査報告書』一・二(環8光明寺地区遺跡調査団、一九九七)


【参照項目】➡鵜の木


【執筆者:原口弘之】


千葉県旭市鏑木鏑木山胤定院。千葉教区№一〇九。良忠開山。延応元年(一二三九)、当地の鏑木城主であった鏑木胤定が良忠教化伝道に深い感銘を受け、城内に一宇を建立して田畑山林を寄進したことを開基とする。建長五年(一二五三)、良忠は当寺において『選択集』を講説し、その翌年には胤定のために『決疑鈔』を述作したと伝えられる。また、江戸時代初期には二七世体誉良憲が中興となり、後に徳川家康から寺領として朱印三〇石を賜っている。浄土宗関東十八檀林の末座に準ずる大寺と称して、五〇石以上の格に準じ、江戸時代には独礼地として特権を得ていた。下総国金照寺光泉寺浄土寺など、数多くの末寺を有した。


【資料】『蓮門精舎旧詞』二一、『浄土宗寺院由緒書』上(『増上寺史料集』五)


【参考】『千葉県浄土宗寺院誌』(千葉県浄土宗寺院誌刊行委員会、一九八二)


【参照項目】➡鏑木


【執筆者:杉山裕俊】


横浜市南区かのえ台。吉上きちじょう山慈眼院。通称、久保山くぼやま光明寺。神奈川教区№一九。草創は、明治一一年(一八七八)、横浜中心部における浄土宗布教のため、中区石川町に建立された鎌倉光明寺会所。同二一年、吉田健三(吉田茂・元首相の養父)と上郎こうろ幸八が現在地を寄進、本堂庫裡などを建立し、宮下舜達(のちに鎌倉光明寺一〇五世法主)が開山。吉田・上郎の一字をとって山号を吉上山とする。


【執筆者:白幡憲之】


名古屋市中村区道下町。終南山悟真院。尾張教区№四七。応永二五年(一四一八)岌井ぎゅうせいにより建立。後に清洲へ移転し、さらに慶長年間(一五九六—一六一五)に白川の地を拝領し移転。延宝四年(一六七六)廓存により本堂再建。昭和二〇年(一九四五)和田霊心により、創建の地にほど近い当地へと移転している途中に空襲に遭い、法然上人絵伝二巻(県重要文化財)等の数点を除く多くの什物・古記録を焼失している。


【資料】『蓮門精舎旧詞』一六(続浄一八)


【参考】名古屋市役所『名古屋市史』社寺編(愛知県郷土資料刊行会、一九八〇)、愛知県史誌出版協会編『愛知県歴史全集』寺院篇(同協会、一九九一)


【執筆者:朝岡知宏】


大阪府岸和田市本町。大阪教区№三九五。開基不明。もとは岸和田城の北、伝馬口門と西大手門を固める要衝にあったというが、元亀二年(一五七一)、城の西にある現在地に移転。泰誉が寺堂を中興し開山となる。泰誉は摂津尼崎大物だいもつの人で、師は堺旭蓮社の才誉。当地における触頭ふれがしら寺院である。


【執筆者:伊藤茂樹】


兵庫県明石市鍛冶屋町。遍照山摂取院。兵庫教区№一三九。元亨年間(一三二一—一三二四)真誉により現在の三木市に創建。三木城主別所長治が豊臣秀吉に滅ぼされた後、元和二年(一六一六)三誉源心により現地に移転。移転については、明石初代城主小笠原忠政(忠真)の築城に関係があるとされる。また当地の触頭ふれがしらをつとめ、浜光明寺とも呼ばれる。


【資料】『蓮門精舎旧詞』三一


【参考】『浄土宗兵庫教区寺院名鑑』(兵庫教区教務所、一九七四)


【執筆者:明石和成】


広島県尾道市瀬戸田町中野。増進山。広島教区№三七。元亨二年(一三二二)生口いくち三郎兼明により中野光明院真言宗)として建立。生口いくち城主生口氏の菩提寺。生口城落城の後、本堂が大破。元和七年(一六二一)宮島光明院開山以八弟子深誉専入が入寺本堂を修復。これより浄土宗に転宗し現在に至る。寺内に生口氏の墓所が現存。


【執筆者:佐藤和順】


一〇

京都府長岡京市粟生あお。報国山念仏三昧院。蓮生寺ともいう。西山浄土宗総本山法然上人二十五霊場第一六番。洛西の丘陵に東面して建っている。境内光明寺古墳、背後に烏ヶ丘古墳などの遺跡がある。『光明寺縁起』(一七世紀成立)によれば蓮生れんせい(熊谷直実)が一ノ谷合戦後の建久九年(一一九八)に法然帰依して開いた念仏三昧院をその草創とする。『平家物語』で蓮生は、平敦盛の首を斬った後に、武芸の家に生まれて犯した悪業を悔いている。そして蓮生は、近江堅田の浮御堂の千体仏の中尊阿弥陀仏像を招き本尊とする。その後、嘉禄三年(一二二七)に起こった嘉禄の法難に際し、法然の遺骨を洛西の太秦うずまさから粟生野に移し、荼毘に付されて本廟が建立された。そのため法然に対する祖師信仰の根本道場とされ、仁治三年(一二四二)上人の石棺から光明が放たれ粟生野を照らしたという奇瑞に対して、四条天皇から「光明寺」の勅額が下され、また永禄六年(一五六三)に正親おおぎまち天皇から光明寺は「法然上人遺廟」であるとされ「浄土門根元地」の綸旨りんじを賜る。同七年には室町幕府将軍足利義輝から寺領の安堵を受ける。同九年には紫衣勅許を受け、朝廷との関係を深め、光明寺発展の基礎が形作られた。

御影堂には、法然七五歳の建永二年(一二〇七)に讃岐国への配流の途次、母からの手紙をもって作られたと伝わる法然自作の張子はりこ御影を祀る。ついで西山義の派祖証空が、西山往生院と兼帯し、その弟子で西谷流の法興浄音が六世となり、後嵯峨天皇・亀山天皇に帰依され、寺儀も正した。七世の善空観性の代には、後宇多天皇から国宝山の勅額を下され、寺運も栄えたが、元弘・建武の乱に衰え、応仁の兵火に焼かれた。しかし一五世乗運空撮の代に香衣を許され、一七世の舜空秀旭の代には、天文三年(一五三四)に勅願所、翌四年紫衣勅許の綸旨が下された。明智光秀からは寺領を安堵され、天正一〇年(一五八二)の山崎の合戦によって方丈・庫裏が炎上したので、豊臣秀吉側近に復興への助成を願い出ている。一七世紀半ばに三二世の倍山俊意が本廟をはじめ諸々の伽藍の整備や僧侶養成のための檀林の復興を図り、中興の祖と仰がれている。本廟は明暦二年(一六五六)に勧進により建立されたもので、現在も残され、光明寺では最古の建築物となっている。御影堂をはじめ一山の伽藍のほとんどは享保一九年(一七三四)の大火で焼失する。この火災を免れて現存している建物は、本廟・拝堂・鐘楼経蔵・中門である。その後、再建のために江戸に張子の御影御鉢みはち釈迦如来像の出開帳を行っている。御影堂は明和六年(一七六九)に一七年間をかけ上棟した。江戸時代中期の京大工の代表作の一つと評されている。また、釈迦堂は明和二年(一七六五)に、阿弥陀堂は寛政一一年(一七九九)に完成している。宝物は二河白道図、四十九化仏阿弥陀聖衆来迎図千手観音立像(以上、国重要文化財)等がある。


【資料】『長岡京市史』【図版】巻末付録


【参照項目】➡嘉禄の法難法然上人二十五霊場


【執筆者:中西随功】


一一

中国陝西省長安(現・西安)懐遠坊(西街)に位置した寺。三階教にゆかりのある寺院で、信行の弟子慧了(—六五六)が所属していた。隋代以降は光明寺であったが、唐・天授元年(六九〇)に大雲経寺となり、開元二六年(七三八)には開元寺と改名された。


【参考】小野勝年『中国隋唐長安・寺院史料集成』(法蔵館、一九八九)、西本照真『三階教の研究』(春秋社、一九九八)


【執筆者:大屋正順】