学寮
提供: 新纂浄土宗大辞典
がくりょう/学寮
江戸時代の檀林におかれた学生の寮のこと。学生が学問・修行をし、生活をともにする道場であり、僧侶の教育に貢献するところが大きかった。宗内学寮の淵源は、すでに法然の吉水禅房在住時の東の新坊、西の旧坊にそれを求めることができよう。しかし、学寮が形をととのえてくるのは一五世紀のはじめ瓜連常福寺の住持として活躍した聖冏の頃であり、談所あるいは談義所といわれる学問所には、それぞれ寮があった。その後諸所の談所で学寮が設置され、下総国横曽根(茨城県常総市)、生実大巌寺・小金東漸寺・川越蓮馨寺などが盛んであった。江戸時代の学寮は宗侶養成機関として、宗学を研鑽させるかたわら勤行法式作法の修行道場であった。当時、浄土宗侶になろうとする者は檀林の学寮に止住して、所定の課目九部を学習し、履修しなければならなかった。学寮では学寮主と学寮生が共に生活し、寮主は寮生を統率し、教育した。寮生は修学中の所化であり、守るべき種種の法度が定められていた。例えば江戸初期の増上寺の所化入寺掟をみると、入寮許可の条件は年齢一五歳以上で浄土三部経講読可能なことであった。入寺希望者が江戸檀林に集中したため、貞享二年(一六八五)以降増上寺七〇人、伝通院五〇人、霊巌寺・幡随院・霊山寺各三〇人に制限されたが、入寺の時期は毎年正月一一日で教科課程は名目・頌義・選択・小玄義・大玄義・文句・礼讃・論部・無部の九部にわかれ、各部の昇部に三ヶ年を必要とした。毎年春秋に各寮で行われる講釈会の成績により寮内の席次を定め、逐次部転して無部上座より縁輪席・扇間席・一文字席・月行事席へと昇進した。月行事の首座を学頭と称し、学頭になると檀林住持の資格保有者となれた。しかし、江戸中期以降は法臘により座席を決定するようになり、次第に修学も形式化し、順次学寮も没落の傾向をたどった。その上、明治時代に入ると檀林の外護者徳川氏の失脚と廃仏思想の浸潤により学寮の維持は困難となり、教学は著しく停滞した。当時の増上寺六八世明賢は教学刷新のため従来の諸学寮を統合して、増上寺に幼学所・興学所(勧学講院)を設置し、外教に対して𦄻綜学院を設立し時勢に対処させた。同様に知恩院においても勧学院が設置され教学の振興をはかった。
【資料】『三縁山志』『十八檀林志』
【参考】『知恩院史』(知恩院、一九三七)、『大本山増上寺史・本文編』(大本山増上寺、一九九九)
【参照項目】➡談義所、縁輪席、一文字席、月行事、関東十八檀林、扇間席
【執筆者:宇高良哲】