御廟
提供: 新纂浄土宗大辞典
ごびょう/御廟
廟を敬っていう語。祖廟ともいう。廟は墓所のことであり、祖先や祖師、また貴人の霊を祀ってある所。平安時代の後期から鎌倉後期にかけて、法華堂や阿弥陀堂が墳墓堂・墓所堂として建立され、その堂下に遺骸を埋葬し、遺骨が納められたりした。浄土宗で御廟といえば、法然の遺骨を納めた廟堂のことで、知恩院や火葬地である粟生光明寺にある。法然は建暦二年(一二一二)正月二五日に大谷山上の南禅院(現在の知恩院勢至堂の地)で寂した。遺体はその東崖上に葬られ、廟堂が築かれた(現在の御廟の地)。月忌に遺弟らにより、知恩講が催されたのが知恩院の名の由来となった。法然の影響の大きなことを恐れた延暦寺衆徒は、嘉禄三年(一二二七)専修念仏の停止を訴えて廟堂を破却(嘉禄の法難)。遺骸は門弟らにより事前に嵯峨に移され、粟生野(現・光明寺)で荼毘にふされた。文暦元年(一二三四)、源智は廟堂を修復して遺骨を安置、知恩教院大谷寺と称し、法然を開山一世と仰いだ。このとき四条天皇より仏殿に「大谷寺」、廟堂に「知恩教院」、総門に「華頂山」の勅額を賜ったという(『知恩院旧記採要録』)。法然絵伝を集大成した『四十八巻伝』三八は、知恩院の名称が最初に現れる絵巻であり、法然尊崇の中心となるのは廟堂(御廟)より発展した念仏の聖地「知恩院」であることを絵と詞書で説明している(聖典六)。現在の御廟は、慶長一八年(一六一三)二九世満誉尊照が常陸国土浦城主松平伊豆守信一の寄進を得て改築(棟札)、その前の拝堂は宝永七年(一七一〇)に四三世円理が建立、その後たびたび修造されている。光明寺の御廟所は、荼毘の地に本廟が建立されたのに始まり、以後光明寺は法然の祖師信仰の根本道場として崇敬されることとなり、永禄六年(一五六三)正親町天皇から「浄土門根元地」の綸旨を賜っている。
【執筆者:今堀太逸】