「別時意会通」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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べつじいえつう/別時意会通
別時意説に対する浄土教側からの会通のこと。別時意説とは、念仏による西方往生は「即時(=順次)」ではなく、輪廻を繰り返した遠い将来の「別時」とする、隋唐代の中国仏教界において勃発した念仏往生に対する論難である。懐感が『群疑論』に「『摂論』、此に至りてより百有余年、諸徳咸く此の論文を見て西方の浄業を修せず」(浄全六・二三上/正蔵四七・三九上)と伝えるように、隋代から唐代は往生別時意説による影響力は絶大であった。学説の典拠は、梁代に真諦三蔵によって訳された無著『摂大乗論』と世親『摂大乗論釈』における四意趣中の第二・別時意の箇所に説かれる、【第一義】他方仏名の誦持による無上菩提の獲得、【第二義】唯だ発願によって安楽浄土に受生する、という二点である(正蔵三一・一九四上~中)。すなわち、誦持仏名や発願などの実践による浄土往生は、わずかな「一金銭」の業因によって「千金銭」という大果を得るようなもので、現実的には遠因としかなりえず、如来が怠惰な衆生の修行を励ますために方便的に説いたに過ぎないのだという。『大乗荘厳経論』にも同様の説がある(正蔵三一・六二〇下)。一般的に別時意説は、摂論学派(通論家とも呼ばれる)が提唱したといわれているが、その全体像を正確に明示する資料は残されておらず、おそらく『摂大乗論』や玄奘訳経論などの教理研究の変遷に同調して、徐々に論点が複雑化していったとみられる。
これに対して浄土教祖師たちは、浄土教を説く『観経』などの「経典」と別時意説を説く『摂大乗論』などの「論書」の内容を、矛盾なく整合させて解釈するための会通説をそれぞれに提示した。道綽の『安楽集』第二大門では、『観経』下品下生の臨終十念による往生を別時意とする説に対して、十念を成就する者はすでに充分な善根を過去世の宿因として積んでいるからこそ、臨終時に善知識に遇って往生することができると反論している(浄全一・六八五上~六上/正蔵四七・一〇上~中)。迦才『浄土論』(浄全六・六四二上~四上/正蔵四七・九〇上~一中)や敦煌本『無量寿観経纉述』では、「発願」のみによる往生を別時意とする第二義を取り上げ、とくに迦才は別時意にあたる唯発願とは『阿弥陀経』の三発願(已発願・今発願・当発願)を指すと解釈し、さらに念仏・観察などの「行」と回向・発菩提心などの「願」とを「兼行」すれば別時意にはならないとの会通説を示した。善導のころまでには他にも、下品凡夫の化土往生は可能であっても報土往生は不可能とする仏身仏土論を絡めた学説や、第一義の派生として、往生行は成仏のための直接的な行因にはならないとする成仏別時意説も主たる論点として追加されていく。
以上のような思想変遷を背景に、善導は『観経疏』に「もし往生せんと欲せば、要ず行願具足することを須いよ。…今この『観経』の中の、十声の称仏は、すなわち十願十行有って具足す。云何が具足する。〈南無〉と言うは、すなわちこれ帰命、またこれ発願回向の義。〈阿弥陀仏〉と言うは、すなわちこれその行なり。この義を以ての故、必ず往生を得」(聖典一八一~二/浄全二・一〇上~下)と述べ、「南無=帰命=発願回向の義」「阿弥陀仏=行」という独創的な解釈にもとづき、阿弥陀仏の本願に依拠する願行具足の称名念仏を実践することによって、西方報土に必ず往生できると主張する。迦才等が諸実践行の組み合わせによる願・行の兼修を説くのに対して、善導は称名念仏一行の中に願・行が具備すると解釈したことが特色である。また、懐感は『群疑論』に、当時の別時意説を「発願往生(念仏・十六観)」と「十念往生(十願十行)」の二点に要約したうえで、願行具足と別時意説の関係について、願行無縁・無願無行・有願無行・有願修行の四種類に分けて詳論している(浄全六・二三上~七上/正蔵四七・三八下~四〇中)。日本浄土教においては、『安養抄』や『安養集』、聖光『西宗要』、良忠『伝通記』『東宗要』などに別時意説が取り上げられたが、教学的な発展はほとんどみられず、その後は直接的にはこの問題はあまり取りざたされなくなる。ただし、往生因となる実践行の脆弱性の問題や凡夫の低位性と報土の高位性の不整合など、別時意説が提起した往生の可否に関する根本的な論点は、安養報化や三心論、辺地往生の問題などへ様々に形を変えて伏在し続けたといえるだろう。
【参考】金子寛哉『「釈浄土群疑論」の研究』(大正大学出版会、二〇〇六)、柴田泰山『善導教学の研究』(山喜房仏書林、二〇〇六)
【執筆者:工藤量導】