念仏往生願
提供: 新纂浄土宗大辞典
ねんぶつおうじょうがん/念仏往生願
『無量寿経』に説く、阿弥陀仏の四十八願中第十八願の願名。あらゆる世界の衆生が、真実のこころをもって深く信じて極楽への往生を願い、十遍南無阿弥陀仏と称えたにもかかわらず、往生しないということがないようにしたい、との願。例外として、五逆罪を犯した者、仏法を謗った者はその限りではない、と付言されている。この願を法然は「本願中之王」(王本願)とする(『選択集』聖典三・四〇/昭法全三二六)。智光は「諸縁信楽十念往生願」(『無量寿経論釈』三、恵谷隆戒『浄土教の新研究』四七六)、良源は「聞名信楽十念定生願」(『九品往生義』浄全一五・一七上)、永観は「十念往生願」(『往生拾因』浄全一五・三九二下)と呼んで、十念の語を願名に加えるが、浄土宗ではこれらを用いず、「念仏往生願」を用いる。法然が『選択集』三に、「諸師の別して十念往生の願と云えるは、その意すなわち周からず。然る所以は、上一形を捨て、下一念を捨つるが故。善導の総じて念仏往生の願と云えるは、その意すなわち周し。然る所以は、上一形を取り、下一念を取るが故」(聖典三・一二三/昭法全三二一)と述べるように、十念往生願では願意が全うされないからである。『大阿弥陀経』第四願前半、『平等覚経』第十七願後半、『無量寿如来会』第十八願、『無量寿経』の第十八願と第二十願を合わせた内容が梵本とチベット訳の第十九願および『無量寿荘厳経』の第十三願前半と第十四願に、それぞれ対応するようである。しかし、乃至十念と説くのは『無量寿如来会』のみであり、『大阿弥陀経』『平等覚経』には「十念」に対応する語はなく、むしろ聞名による往生を説く。また梵本では「乃至十念」に相当する箇所を「antaśo daśabhiś cittotpādaparivartaiḥ」(たとえ一〇回、心を発すことによってでも)としていて、口称の念仏による往生が誓われているわけではなく、チベット訳でも同じである。それにもかかわらず、これを口称の念仏による往生が誓われていると解釈するのは、善導が「乃至十念」を「我が名字を称すること下十声に至るまで」(『観念法門』浄全四・二三三下)と解すように、念を声の意味で理解することを承認するからである。良忠は『決疑鈔』二(浄全七・二三五上)に第十八願を釈して、生因としての三心具足称名念仏が誓われたものとする。すなわち、願文の「至心」を至誠心に、「信楽」を深心に、「欲生我国」を回向発願心に当てる(以上、三心具足)。これを本願の三心という。続く「乃至十念」をまさしく願の行体であって、南無阿弥陀仏と称えることであるとする。また願文の末尾の「唯除五逆誹謗正法」に対し、『観経』下品下生では、五逆と十悪を犯したものも往生する、とされる。これについて善導は、「抑止門の中に就いて解せん」とした上で、四十八願中に謗法と五逆とを除くのは「如来、その、この二の過を造らんことを恐れて、方便して止めて往生を得ずと言う。またこれ摂せざるにはあらず」(『観経疏』散善義、聖典二・三一九/浄全二・六九上~下)とし、一方で『観経』の説時には「その五逆はすでに作れり。捨てて流転せしむべからず。還って大悲を発して摂取して往生せしむ」(同)として、『無量寿経』では、如来は抑止の立場から五逆謗法を除外したのであって、『観経』の摂取の立場からいえば、実際には往生する、と理解する。なお、『観経疏』では抑止する主体を単に「如来」というのみであるが、聖光によれば、法然の説は法蔵(弥陀)の抑止である、とする(『西宗要』四、浄全一〇・二一七上~下)。一方、良忠(『伝通記』散善義記三、浄全二・四二九下)と道光(『無量寿経鈔』三、浄全一四・九一上、同四、浄全一四・一六二上)は釈尊の抑止、聖冏は弥陀の抑止とした上で、釈尊の抑止も「或可の義」(『釈浄土二蔵義』二四、浄全一二・二七六)とする。義山はこれらの諸説の是非を論じた上で弥陀の抑止とする(『無量寿経随聞講録』上之三、浄全一四・三二五上~六下)。この他、伝法然『弥陀本願義疏』では釈尊の抑止とする(昭法全九三一)、というように解釈が分かれる。
【資料】道光『無量寿経鈔』四、義山『無量寿経随聞講録』上之三
【参考】香川孝雄『無量寿経の諸本対照研究』(永田文昌堂、一九八四)
【執筆者:齊藤舜健】