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道光

提供: 新纂浄土宗大辞典

どうこう/道光

寛元元年(一二四三)—元徳二年(一三三〇)五月二九日。あざな了慧蓮華堂・望西楼ぼうせいろうとも称す。諡号しごうは広済和尚良忠門下三条派祖。多くの著作を残し、法然の思想を整理・統一するとともに、聖光良忠という鎮西流浄土宗の正統であることを対外的に位置づけた。相模国鎌倉の宍戸常重の子。建長五年(一二五三)比叡山に登り尊恵に従い修学。その後法然浄土教に帰した道光はその教義に異説が多いことを嘆き、法然の遺文・法語消息などを二十余年かけ集め偽作などを判別し整理して、文永一一年(一二七四)に『漢語灯録』『拾遺漢語灯録』を、翌年に『和語灯録』『拾遺和語灯録』を編纂した。この業績により多くの法然の遺文等が散失を免れ、現在に至るまで法然研究に重要な役割を果たしている。亀山天皇が浄土の要義四八問を尋ねたのに対し『尊問愚答記』を作り答えたのをはじめ、伏見天皇には円頓戒を授け、後醍醐天皇からは広済和尚の号を賜るなど歴代天皇との関わりも深い。建治三年(一二七七)洛陽華蔵寺で慈明から、弘安二年(一二七九)に良忠から円頓戒を授かり、翌年には良忠より『授手印』も授かっている。さらに同七年には万寿禅院で覚空から円頓戒相承した。同年には『聖光上人伝』を著し、同一〇年良忠が入寂するとすぐに、木幡派良空の依頼によって『然阿上人伝』を著している。また翌年、良忠の著作の中に『無量寿経鈔』が無いことを憂いた良空道光に鈔を作るよう要請。再三辞退した道光だったが永仁三年(一二九五)に鈔を作り、一条派然空と精論を重ね同五年に治定した。この間に『選択集大綱抄』をも著し鎮西流の正統性を主張している。また文保元年(一三一七)大宮悟真寺弟子隆恵に円頓戒を授けているが、このことは円頓戒の研究にも勝れた道光が他の良忠門下とは違い『授手印』にあわせ『円頓菩薩戒血脈譜』を伝授することで、対外的にも自らの正統性を強調しているといえる。さらに『新扶選択報恩集』などを著し、明恵摧邪輪ざいじゃりん』等に反論し浄土宗の独立性を力説するなどその功績は大きなものである。他に『往生論註略鈔』『伝通記料簡鈔』『往生拾因私記』『知恩伝』『菩薩戒義疏見聞』などの著作がある。


【参考】石橋誡道「派祖望西楼了恵上人道光暢角広済大和尚伝」(『了恵輯録法然上人和語灯録』檀王法林寺、一九三〇)、玉山成元『中世浄土宗教団史の研究』(山喜房仏書林、一九八〇)


【参照項目】➡黒谷上人語灯録


【執筆者:大谷慈通】