唯除五逆誹謗正法
提供: 新纂浄土宗大辞典
ゆいじょごぎゃくひほうしょうぼう/唯除五逆誹謗正法
念仏を称える衆生は全て救われるのであるが、ただ五逆の罪および正法を謗る罪を犯したものだけは救われないということ。『無量寿経』上の第十八願文によると、「もし我れ仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽して、我が国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、もし生ぜずんば、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とを除く」(聖典一・二二七/浄全一・七)と記されている。仏教において五逆罪と謗法罪がいかに重罪であるかがわかる。しかし『観経』の下品下生の文には「あるいは衆生あって、不善の業たる五逆・十悪を作して、諸もろの不善を具す。かくのごとき愚人、悪業をもっての故に、まさに悪道に堕して、多劫を経歴して、苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごとき愚人、命終の時に臨んで、善知識の種々に安慰して、為に妙法を説きて、教えて念仏せしむるに遇えり。この人、苦に逼められて、念仏するに遑あらず。善友告げていわく。汝、もし念ずること能わずんば、まさに無量寿仏と称すべしと。かくのごとく至心に声をして絶えざらしめ、十念を具足して、南無阿弥陀仏と称す。仏名を称するが故に、念念の中において八十億劫の生死の罪を除く。命終の時、金蓮華のなおし日輪のごとくなるが、その人の前に住するを見る。一念の頃のごときに、すなわち極楽世界に往生することを得」(聖典一・三一二~三/浄全一・五〇)とあり、五逆・十悪を犯した悪人でも、十念を具足して南無阿弥陀仏と称することによって、日輪のような金蓮華の来迎を見て極楽世界に生ずることができると説かれている。ここに『無量寿経』と『観経』との間で五逆罪と謗法罪を犯したものに対する扱い方に、大きな矛盾が指摘される。この二経の相違については、古くから五逆罪と謗法の罪を犯したものは救われるのか救われないのかを命題とする「逆謗除取」の問題として、種々の解釈がなされている。これについて中国の懐感は『群疑論』三に「古今の大徳、この両経を釈するに一五家ありてともにこの経を解せり」(浄全六・三四上/正蔵四七・四三下)といい、中国唐代には一五師による異説のあることを指摘している。いずれにしても浄土宗においては、善導が『観経疏』散善義に、抑止門と摂取門とを説いて、『無量寿経』は五逆・謗法の罪をまだ犯していないものに対してこれを抑止したものであり、『観経』は五逆・謗法の罪を犯したものに対してこれを摂取するものである、と解釈する立場をとっている。すなわち、結果としては五逆罪や謗法罪を犯したものでも、回心し懺悔して念仏すれば救われるという解釈に立つものである。
【資料】『釈浄土群疑論探要記』、『糅鈔』
【参考】石井教道『浄土の教義と其教団』(宝文館、一九二九)
【参照項目】➡逆謗除取
【執筆者:金子寛哉】