「名号」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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目次
みょうごう/名号
一
仏・菩薩の名称、名前、名字、称号のこと。浄土門では特に阿弥陀仏の名、また南無阿弥陀仏の六字のこと。ⓈnāmanⓈnāmadheyaⓅnāmaⓅnāmadheyyaⓉmtshanⓉming。Ⓢnāmadheyaは『マヌ法典』(二・三〇)において命名式を意味する。
[念仏(仏随念)と名号]
仏の名号を聞くことを聞名という。聞名は遇い難い仏・仏教との邂逅を讃歎する表現であり、仏の存在を名号を通して讃歎するこの立場は、三宝随念の一つ「仏随念(Ⓢbuddhānusmṛti)」の念仏説にも繫がる。
[仏の通号と別号]
仏には通号と別号が存在する。通号は仏や如来という尊称であり、十号として知られるものである。別号は阿弥陀や大日のように、個々の仏の名称のことである。基本的には、仏の通号には功徳が包摂され、別号にはその仏の特徴・ありようが象徴される。例えば阿弥陀仏は無量の光・寿命を、薬師仏は疾病苦患の快癒を、阿閦仏は不動心を、弥勒仏は慈を体とするごとくである。
[称名説との関係]
インド仏教において仏の名号を称える称名念仏(称念)説は『十住毘婆沙論』「易行品」に出る。そこでは阿惟越致(不退転)地に至り、無上正等覚を成就するために、十方諸仏を念じ、諸仏名号を称念することが説かれる。阿含経典や『ラリタヴィスタラ』『撰集百縁経』などには「南無仏」と称念する例、『法華経』観世音菩薩普門品にも観音菩薩を称念する例がある。初期の大乗仏教では、悪業滅尽のために称名が悪業の対治分とされる例もあり、その一環として仏の名号を挙げて帰依する懺悔儀礼が流行する。インド浄土教では、『阿弥陀経』の三宝随念(念仏念法念僧)、『無量寿経』の名号十念説が称名と関連する。中国浄土教では極楽往生との関係において、善導『観念法門』「称我名字」(浄全四・二三三上)、同『往生礼讃』「称我名号」(浄全四・三七六上)、あるいは同『観経疏』「称我名号」(聖典二・一八三/浄全二・一〇下)が有名である。
[誓願と名号]
阿毘達磨の菩薩論には、三阿僧祇百劫の成仏説において、「師仏である釈迦仏のようになりたい」と誓願した結果、同号の「釈迦仏」と成る説が見られる。こうした名号の継承を説く例に、阿閦菩薩→阿閦仏、弥勒菩薩→弥勒仏(『法華経』「序品」)などがある。対して『無量寿経』の法蔵菩薩は、師仏の世自在王仏から承けた教えを取捨選択し、より優れた仏国土を建立しようと「別願」を立てて修行に励んだ。その結果、成仏して「別号」の阿弥陀(無量寿/無量光)仏となった。このように誓願内容を反映して、名号の継承、展開(別号)が区別される例もある。
[曇鸞の名号観]
曇鸞『往生論註』には二種の名号観が確認できる。①名号に功徳が具わる、②名号は体を象徴する(名体相即説)である。①は諸仏は功徳無量であるから名号無量であるとする説である。その包摂のために十号(通号)を出しても、それで尽きることはないという。後の万徳所帰説の前提が確認できる。『往生論註』には「諸仏如来には徳無量あり。徳無量なるが故に徳号も亦た無量なり。若し具さに談ぜんと欲せば、紙竹にも載すること能わざるなり。これを以て諸経に或は十名を挙げ、或は三号を騰ぐ。蓋し至宗を存するのみ。豈にこれに尽くさんや」(浄全一・二三八上)と出る。これは『大智度論』二の「仏功徳無量。名号亦無量」(正蔵二五・七一中)と類似するものである。②は仏の名号と性質との一致(名は体を現す)を指し、主に別号を念頭にする説である。『往生論註』では「名の法に即すとは、諸仏菩薩名号、般若波羅蜜及び陀羅尼の章句、禁呪の音辞等これなり」(浄全一・二三八下)と出る。以後、主に①の説を基点として源信『往生要集』「大文第五助念方法」、永観『三時念仏観門式』、同『往生拾因』、珍海『菩提心集』、法然『選択集』、同『逆修説法』などに名号功徳観が展開される。
[法然の名号観]
法然の名号観を功徳説から捉えると、大きく二つの立場が確認できる。①阿弥陀仏の通号(仏)に一切仏の功徳が包摂される、②別号(阿弥陀)に包摂される、である。①の立場を説くのは『逆修説法』六七日である。そこでは永観が説く別号(阿弥陀)万徳所帰説を廃し、『西方要決』説に拠った『往生要集』の通号(仏)万徳所帰説が主張される。②の立場を説くものは、勝劣義の根拠となる『選択集』三の「名号はこれ万徳の帰する所なり」(聖典二・一一八)である。仏果に具わる内証功徳(四智 三身 十力 四無畏など)と外用功徳(相好 光明 説法 利生など)とのすべてが、「阿弥陀」の名号に帰すと説かれる。
【参考】善裕昭「初期法然の宗観念」(『佛教大学総合研究所紀要』三、一九九六)、深貝慈孝「法然上人の名号観察—名号万徳所帰説に関して—」(『阿川文正教授古稀記念論集 法然浄土教の思想と伝歴』山喜房仏書林、二〇〇一)、藤仲孝司・中御門敬教「世親作『仏随念広註』和訳研究」(『佛教大学総合研究所紀要』一五、二〇〇八)、中御門敬教「無着作『仏随念註』と『法随念註』和訳研究」(『佛教大学総合研究所紀要』一七、二〇一〇)、曽根宣雄「法然上人の万徳所帰論について」(『仏教論叢』五四、二〇一〇)、澤田謙照「法然上人と名号—特に聞名について—」(知恩院浄土宗学研究所編『八百年遠忌記念法然上人研究論文集』、二〇一一)、藤堂俊英「宗祖の名号観」(『浄土宗学研究』三七、二〇一一)
【参照項目】➡念仏、聞名、名体不離、万徳所帰、六字名号、南無阿弥陀仏、十号
【執筆者:中御門敬教】
二
南無阿弥陀仏などと揮毫したもの。廬山寺本『選択集』開巻劈頭には、法然真筆の六字名号が掲げられている。他にも伝法然とされる名号もあるが、「源空」の署名の信憑性等から、真筆とは確定し難いものもある。浄土宗では南北朝時代から、親鸞や一遍名号の影響で書かれるようになった。確証あるものでは証賢の名号がある。室町時代には開山名号が多く遺存しており、各時代の名号を見ると、名号書式が門下に踏襲されていることから名号の系譜が考えられる。例えば聖冏、聖聡系譜の名号がある。また存貞から存応に踏襲された楷書細書き名号は、廓山、随波に継承された。本山系名号には型の重複があり、名号は思想信仰上影響を受けた人の型や書風に倣っていることがわかる。初期には名号を大書して、左下端に誉号か蓮社号を書いている。江戸時代の存応一門の名号では中央に署名している。後に印を押すなど、名号書式が各時代の文化的様相の影響を受けている。また本末関係を示した名号は、右側に跋文を書いている。書式は時代とともに推移、変遷していった。また名号は、本尊的意図のほかに、追善のための名号や現世利益の面が強調されたものがある。変形したものでは、経文書名号、十念名号、四十八体名号、宝塔形名号、名体不離名号など種々な表現がなされた。
一方、捨世派名号も系統によって書き方を異にしている。捨世僧も思想的な観点からいくつかの系統があるが、書かれた名号の系譜と符合する。称念、以八などの書風の系譜や、無能、不能と継承された名号がある。捨世派で最も特徴あるものは、弾誓、澄禅、徳本に継承された独特な意匠で迫力が充満した速筆の名号である。名号が神秘性に富み、生き仏的性格が醸し出されたところに需要を高めた。念仏の数や講中の人数によって大きさの違う名号を配るという念仏策励法を考えたところにも特徴がある。それらは民衆に配付され名号信仰が成立していった。近世以降では誉号で署名された名号が多いが、捨世派では不特定の人に授与したので僧名で署名している。
【参考】八木宣諦『南無阿弥陀仏の書』(東京教区教化団、一九九一)、同「名号、揮毫の書式」(『図説浄土宗の書式』斎々坊、一九九三)、同「浄土宗書跡の研究」(『仏教文化研究』三九、一九九四)、同『覆刻浄土高僧名号手鑑』(国書刊行会、一九九八)【図版】巻末付録
【参照項目】➡利剣名号
【執筆者:八木宣諦】