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源信

提供: 新纂浄土宗大辞典

げんしん/源信

天慶五年(九四二)—寛仁元年(一〇一七)六月一〇日。恵心僧都えしんそうず横川よかわ僧都天台宗恵心流の祖。大和国葛城かつらぎ郡当麻に生まれる。父は占部うらべ(卜部)正親、母は清原氏。一男四女の一男で、少年の頃高尾寺に参詣し、一僧より小暗鏡を与えられ横川で磨けと夢想を得る。九歳、父母と別れ叡山良源の門に入る。一三歳、出家源信と名のる。学才を発揮し、朝廷の八講の功により賜った布施を母に送ったが、遁世修道後生を救えという母の語により幽居し恵心院で浄業を修す。貞元三年(九七八)三七歳、広学竪義こうがくりゅうぎをおさめ『因明論疏四相違略註釈』を著して陽仁紹に托し、宋慈恩寺弘道の門下に贈る。母の死を機に願生の意を強くし、永観二年(九八四)一一月『往生要集』三巻を起稿し、翌年四月に完成した。のち西国を遊歴し寛和二年(九八六)宋の周文徳に托し『往生要集』や良源の『観音讃』等を送ったが、周は国清寺に納め道俗は鑽仰したという。同年『二十五三昧式』を作り同志と毎月念仏三昧を行じ、また『要法文』を著す。永延二年(九八八)『二十五三昧起請』『普賢講作法』を作り、正暦年間(九九〇—九九五)に霊山院を創建し、横川華台院に丈六阿弥陀三尊を安置し迎講むかえこうを始める。長保二年(一〇〇〇)法橋に叙せられ、同五年寂照入宋のとき『天台宗疑問二十七条』を托し知礼に送る。寛弘元年(一〇〇四)権少僧都に任ぜられたが翌年辞任する。同年『大乗対俱舎抄』一四巻を著し性相学の才を発揮。同二年には『一乗要決』を著し最澄以来の一乗真実三乗方便を顕彰する。長和二年(一〇一三)願文を作り従来の浄業を記録し、翌年『阿弥陀経略記』を著して無量寿三諦という念仏成仏の義を説く。寛仁元年、病重く六月一〇日寂す。七六歳。『源氏物語』に登場する横川僧都源信がモデルとされる。寂照・厳久・覚超等の多くの弟子があり、後世恵心学派を形成する。著作は真偽未詳を含め、浄土教に関するものが多部あり、法然は『往生要集』によって浄土門に入り、その釈を残す。源信浄土教厭離穢土欣求浄土の念を強くし、地獄極楽図や餓鬼草紙あるいは文学・芸術等に多大な信仰世界を表現することとなる。


【参考】八木昊恵『恵心教学の基礎的研究』(永田文昌堂、一九六二)、同『恵心教学史の総合的研究』(同、一九九六)、速水侑『人物叢書 源信』(吉川弘文館、一九八八)


【参照項目】➡往生要集厭離穢土欣求浄土


【執筆者:福𠩤隆善】