法然門下の異流
提供: 新纂浄土宗大辞典
ほうねんもんかのいりゅう/法然門下の異流
法然門下における教義を異にする流派の意。法然は多くの優秀な弟子を育成し、その弟子たちは流派を形成した。その流れを知る上で、いくつかの注目すべき系譜資料が存在する。まず、正嘉元年(一二五七)に成立した住信『私聚百因縁集』七「我朝仏法王法縁起由来」には、「幸西〈成覚一念義の元祖〉、聖光〈鎮西義の元祖〉、隆寛〈長楽寺の多念義の元祖〉、証空〈善恵坊西山義の元祖〉、長西〈九品寺の諸行本願義の元祖〉」(仏全一一六下)と紹介されている。次に、正元元年(一二五九)に成立した日蓮『一代五時図』には、「隆寛、証空、聖光、覚明、幸西、法本」が挙げられている。また、応長元年(一三一一)成立の凝然『源流章』には、幸西の一念義、隆寛の多念義、証空、聖光、長西を挙げている。室町時代には、永和元年(一三七五)成立の尭恵『吉水法流記』、そして同四年成立の静見『法水分流記』には、信空の白川門徒、湛空の嵯峨門徒、隆寛の多念義(長楽寺流)、証空の西山義(小坂義または弘願義)、聖光の鎮西義、源智の紫野門徒、幸西の一念義、長西の九品寺義(諸行本願義)、親鸞の大谷門徒(一向宗)という、いわゆる「五義四門徒」を挙げている。さらに、江戸時代では、享保一二年(一七二七)成立の鸞宿『総系譜』(全三巻)を代表的なものとして挙げることができる。これらのうち、『法水分流記』に説かれる「五義四門徒」は、法然の異流を表す分類として伝統的に用いられてきた。これらの九流のうち、信空の白川門徒、湛空の嵯峨門徒、源智の紫野門徒の三流については、教学的な内容を持つ資料が残されておらず、その思想的な特徴を知ることが困難であるが、地名をその流派の名に持つことから、その地に形成された念仏集団を想定できる。その他の六流については、各派その史料が残されており、思想的な特徴を知ることができる。
信空は叡空を師とし(叡空の死後は、法然を師とし、法然からも円頓戒を相承した)、法然の没後、比叡山の黒谷本房と共に、里房である白川里房を継承し、そこを拠点として集った者たちは白川門徒と呼ばれた。信空の弟子には、嵯峨を中心として活動し嵯峨門徒を形成した湛空や、『明義進行集』を著して信空・隆寛・明遍などの事蹟を伝えた信瑞がいる。この白川門徒・嵯峨門徒は、鎮西流の京都進出に伴い、合流していく。
隆寛は、比叡山での修学後下山して東山長楽寺に居住し、慈円の庇護を受けた。嘉禄の法難で、陸奥へと流罪になるも、森(毛利)入道西阿の計らいで相模飯山に留まった。その流派は長楽寺流(多念義)と呼ばれ、弟子には、鎌倉に長楽寺を開き弘教した智慶、鎌倉に理智光寺・安養院を開いた願行、京都の長楽寺において念仏を広めた敬日等がいる。嘉禄の法難以降、主に関東で教線を広げた。
証空は、天台仏教や貴族階級との融和を図りながら、法然滅後の京都の専修念仏集団を守り抜いた。その門流は、西山義(流)、小坂義と呼ばれ、京都を中心に展開し現在に至っている。その流れには、いわゆる「西山四派」と呼ばれるものがある。まず、仁和寺西谷の光明寺、洛東禅林寺に住した法興は西谷義を形成し、観智、了音等の弟子がいる。洛南深草の真宗院に住した立信は、深草義を形成し、顕意などの弟子を輩出した。洛東阿弥陀院を開き、安養寺を興した観鏡証入は東山義を形成し、弟子に証仏、観明、阿日等がいる。嵯峨二尊院内の浄金剛院に住した道観証慧は、嵯峨義を形成し、弟子に覚道、円道等がいる。これら四派以外にも、三鈷寺を拠点とした遊観(本山義)には、孫弟子に示導(康空)、その弟子に実導(仁空)があり、廬山寺、遣迎院を運営した。薩生は、はじめ幸西より一念義を習い、後に鎌倉で独自の義を広めた。聖達は、その門下から時宗の開祖、一遍を輩出した。その後、一遍は時宗の流れを形成するが、江戸時代に良忠門下の一向俊聖が派祖となる一向派(番場時衆)が時宗教団に組み入れられる。同派は江戸期より時宗教団からの離脱を企図し、昭和一七年(一九四二)に浄土宗に帰属した。これら証空の門下の中で、西谷義の流れに、現在の西山浄土宗、浄土宗西山禅林寺派が連なり、深草義の流れに、浄土宗西山深草派が連なることとなる。
浄土宗二祖である聖光は、筑前国香月(福岡県北九州市)に生まれ、善導寺(浄土宗大本山)等、九州に四八箇寺の建立をはじめ、三祖良忠への付法という、現在の浄土宗の基礎を築くこととなる業績を残し、その流派は鎮西義(流)と呼ばれた。鎮西義は当初布教の中心は九州であったが、その高弟である良忠の門下が全国に展開させていった。その他の弟子には、浄土宗蓮社号の始とされる白蓮社(宗円)、敬蓮社(入阿)、修阿、聖護房(常随給仕の弟子)等がいる。
源智は、加茂の功徳院(現在の百万遍知恩寺)と、法然滅後には吉水の草庵の本尊や房舎等を相承し、その門流は、両寺の周辺を拠点とし、紫野門徒と呼ばれた。後に鎮西流と合流することとなる。
幸西の流派は、一念によって往生できると主張したことから一念義と呼ばれた。幸西の門流は、京都、阿波を中心に展開したが、室町時代には法統が絶えた。同派からは、入宋し浄土教典籍の開版に尽力した明信や入真を輩出した。一念義は造悪無礙を標榜したとされ幸西門下は法然からも布教停止の命を出されたが、善導関係の著作や散逸した書物等からすれば、教学的な大系を有しており、同じく一念義と称され布教停止の命を受けている行空とは、区別されるべきであろう。
長西は洛北九品寺を開き、布教の場としたことから、その流派を九品寺義、または、諸行を本願とする主張をしたことから、諸行本願義と呼ばれた。主に京都・讃岐・鎌倉の三地域を拠点とし、西山深草義の顕意と教学的論争を行った証忍や、長西の故郷である讃岐西三谷で教えを広め覚心、鎌倉浄光明寺や新善光寺にて教えを広めた道教などの弟子を輩出した。
親鸞の流派は、大谷門徒・一向宗・無礙光宗・門徒宗・愚禿義などと呼ばれた。親鸞の弟子には、「横曽根門徒」の指導者で下総国横曽根(茨城県常総市豊岡町)に報恩寺を開創した性信、「高田門徒」の中心人物で、下野国高田(栃木県真岡市高田)の如来堂を中心として布教し、現在の真宗高田派(本山・三重県津市専修寺)の基礎を築いた真仏・顕智、『歎異抄』の著者として有名な唯円がいる。また、親鸞の子孫達、覚信尼(親鸞と恵信尼との子)、如信(善鸞の子で親鸞が養育、本願寺二世)、覚如(覚信尼の孫、同三世)、存覚(覚如の長子)らが本願寺の基礎を固めた。その後、蓮如は『御文章』(または『御文』とも)を作成し、多数の信者を獲得し、本願寺を大いに興隆・発展させた。その晩年には石山本願寺を建立。その後、石山の地をめぐり織田信長と争う(一向一揆)こととなった。信長との一一年に及ぶ戦争の後、本願寺内での和戦両派の対立があった。講和派の第一一代宗主の顕如と徹底抗戦派の長男教如が対立し、顕如が教如を義絶、信長と和議をし、本願寺は石山を退去した。その後、天正一九年(一五九一)豊臣秀吉が京都・西七条の地を寄進し、西本願寺(浄土真宗本願寺派)が成り、慶長七年(一六〇二)徳川家康が教如に東六条の地を寄進し、東本願寺(真宗大谷派)が成った。親鸞の法系は、江戸時代になって一向宗の名称がほぼ公的に使用されるようになった。これに対し、安永三年(一七七四)に「一向宗」の各派が合同で幕府に「浄土真宗」を宗名とすることを願い出たものの、浄土宗が強く反対して幕府も決着をつけられずに明治維新を迎えた。「真宗」の呼称が認められたのは、明治五年(一八七二)のことである。
【参考】恵谷隆戒『概説浄土宗史 補訂版』(隆文館、一九七六)、浄土宗総合研究所編『法然上人とその門流—聖光・証空・親鸞・一遍—』(浄土宗、二〇〇二)、同編『念仏信仰の諸相—法然上人とその門流Ⅱ—』(同、二〇〇七)【図版】巻末付録
【参照項目】➡信空、隆寛、証空、一遍、聖光、良忠、源智、幸西、長西、親鸞、湛空、行空
【執筆者:東海林良昌】