法然上人御影
提供: 新纂浄土宗大辞典
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ほうねんしょうにんみえい/法然上人御影
法然の肖像画のこと。広い意味では彫像や鋳像・塑像の立体像も含まれる。法然の姿が描かれたことは『四十八巻伝』など各種法然伝に記されているが、その目的は『逆修説法』では「凡そ祖師の真影を図することは、すなわち二意あり。一つには恩徳を報ぜんがため、二つには賢を見て斉らんと思んが」(昭法全三〇六/浄全九・四一四下)ためであるとし、また『四巻伝』では、人ごとに真像を模して以て月忌を修し、その徳をたたえ遠忌を修するためであるとしている。したがって祖師法然への報恩・追善、そして自己の修行の手本として教化を蒙るため、末流の人びとによって数多く描かれた。その意義は、それを通して教団の依憑たる祖師に対する思慕・報恩そして敬虔な宗教情熱の高調、さらに宗意識の昂揚がなされていくところにある。御影の主なものをあげれば、隆信の御影、足曳の御影、鏡の御影、信実の御影、宝瓶の御影、転衣の御影、頭光踏蓮の御影、三日月の御影、張子の御影、池の水の御影、参内の御影、足半の御影などがあり、また描いた人の名をとって、隆信、信実、月僊、古礀、道恕、独湛などの御影、さらに伝信空、伝聖光の各御影がある。また版画に彫られ摺写されたものもある。
先に述べたような意味をもつ御影は、手本とする御影を傍らにおいてそれを見ながら写す臨書と、手本にする御影の上に薄い紙を置いて透写(中国では搨模といわれる)する方法で模写され、さらに法然の伝記・伝承から題材をとった御影が新たに描かれた。その中でも「鏡の御影」が多く模写されたが、その理由について「諸国に鏡御影数多くあり、大師在世にかく多くは作彫有るべからず。恐らくは二尊院(金戒光明寺の間違いであろう)にある処の像を模写し、それぞれ伝来あるを皆正伝といへるならん歟、亦は在世に門弟各々大師にかくしひそかに風姿をうつしとどめける者か、又は乱世によりて正本の像かかる辺鄙にうつらせ、其本所に安置せるは写しならんか、いつれにも諸所にて拝するの像容姿、ひとしくして四、五百年来とみゆれど、数百年の間の事詳ならず、かく年暦を経ていづれにても尊敬せられ給へる像なれば、信をとりて正身と思はば、たとへうつせし像にても霊験同しかるへし」(『生実大巌寺志』浄全二〇・七九下~八〇上)と、鏡の御影といわれる御影の多くある理由とともに、たとえそれが模写であったとしても、既に年暦を経て尊敬せられ拝されてきた御影であるから正身と思い、拝すべきことを述べている。また「宝蔵什具の中に色衣の画像一像あり、世に是を転衣の御影と称す、毎年御忌の当日都鄙の門葉に拝せしむ」(『三縁山志』浄全一九・四一〇下)というように、年一度の御忌のときに門流の人びとに開帳されることも行われた。さらに祖師の影像を師より付嘱され、それを伝持していくことも重要なことであった。
法然の御影は既述のものの他、現存のものあるいは記録だけのものを含め三十数例ある。もともと家ごとにまつられるべきもので各種の御影があったと考えられるが、とくに伝記あるいは伝承を素材とした御影が描かれ彫られた。そして本山はもちろんのこと法然の誕生・修学・配流・化導・往生の地などに寺院が建てられ、それぞれ成立伝承をもつ御影が描かれ、また彫られて安置された。それらのほとんどは法然自画像、自刻像の伝承をもつが、それは信仰として伝えられてきたのである。なお、なかには真宗の影響を受けたと考えられる光明本尊の大きな光明をもつ御影も存在している。
【参考】望月信成「法然上人像について」(『美術研究』七九、一九三八)、井川定慶「法然上人御影攷」(『日本古代史論叢』吉川弘文館、一九六〇/『浄土宗の五重説法』教育新潮社、一九七二)【図版】巻末付録
【参照項目】➡御影、足半の御影、足曳の御影、池の水の御影、往生要集披講の御影、お胎籠りの御影、鏡の御影、月僊筆の御影、古礀筆の御影、頭光踏蓮の御影、選択集伝授の御影、伊達孝太郎氏筆の御影、血垂れの御影、伝信空筆の御影、転衣の御影、展墓の御影、道恕賛の御影、独湛筆の御影、波乗りの御影、二祖対面の御影、念仏勧進の御影、信実の御影、張子の御影、版画法然上人御影、宝瓶の御影、墨画法然上人御影、三日月の御影
【執筆者:成田俊治】