「阿弥陀仏像」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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目次
あみだぶつぞう/阿弥陀仏像
阿弥陀仏の彫塑像やその図像。
[インドの阿弥陀仏像]
インドでは、初期大乗仏教時代の阿弥陀仏とされる像が幾つか発見されたものの、紛失もし、明確には記されないものが多い。一九七六年にはマトゥラー市西部のゴーヴィンドナガルの遺跡において、ブラフミー文字で記されている「フヴェーシュカ大王の第二六年の第二月の第二六日」のアミターバ仏立像の台座が発見された。解読に一部疑義をもたれているが、阿弥陀仏像のなんらかの存在を示すものとして重視されている。また密教の興隆とともに密教経典に基づいた阿弥陀仏像が知られるようになり、その代表としてビハール州ナーランダー考古博物館蔵の阿弥陀如来座像が挙げられる。
[中国・韓国の阿弥陀仏像]
中国においては斉・永明元年(四八三)に釈玄嵩が造立した、石面に刻まれた裳懸座の無量寿仏立像が注目に値する。韓国では太白山浮石寺の法堂を無量寿殿と称し、この本尊が塑造の阿弥陀仏像(韓国国宝)である。これは高麗時代の作とされるが、新羅時代の慶州の石窟庵の座像と同様の形式である。韓国では限られた時代に、阿弥陀仏像が集中して作られたと考えられよう。
[日本の阿弥陀仏像]
日本においては『日本書紀』にある舒明天皇一一年(六三九)九月に三〇年間唐で修学していた恵隠が帰国し、翌年に『無量寿経』を講説したのが、阿弥陀仏信仰の始めといえる。現存する古い阿弥陀仏像は、銅造阿弥陀三尊像(東京国立博物館)や押出阿弥陀三尊二比丘像(法隆寺)、塼仏阿弥陀三尊二比丘像などがある。絵画作品には、法隆寺金堂壁画の阿弥陀浄土図(昭和二四年〔一九四九〕一月に一部焼失)がある。以上の阿弥陀仏の印相は転法輪印をとっている。天平時代の阿弥陀仏像としては法隆寺蔵、天平五年(七三三)作の銅造阿弥陀如来及両脇侍像(伝橘夫人念持仏)がよく知られている。中尊は池の中から生えた蓮華上に結跏趺坐し、施無畏・与願印を結び、極めて高い鋳造技術で作られている。
[阿弥陀仏像の発展]
日本では浄土教の発展とともに阿弥陀仏像はさまざまな形で発展してきた。天平時代から平安時代に至り、天台浄土教の発展と共に、丈六阿弥陀仏像が多く作られた。京都願船寺の阿弥陀如来座像は天慶九年(九四六)作と考えられ定印阿弥陀仏像として最古の紀年銘が知られる。天喜元年(一〇五三)に建立された平等院鳳凰堂の阿弥陀仏像は、定朝作として著名であり、寄木造の代表とされる定朝様式を知ることができる基本的仏像である。この仏像の胎内には阿弥陀の大呪と小呪が梵字で記された蓮台が納入されていることでも特筆される。京都浄瑠璃寺の九体堂は、現存する最古の九体仏が残っていることで有名である。大正大学礼拝堂に安置されている阿弥陀仏座像(国重要文化財、旧・宮島光明院所蔵)は説法印であるが、安徳天皇(一一七八—一一八五)の菩提を弔うために造られた像である。また静岡願成就院蔵の運慶作阿弥陀仏座像や横須賀浄楽寺蔵の阿弥陀三尊像も注目されるものである。
[法然の時代の阿弥陀仏像]
一三世紀に入り、運慶から快慶の時代に移行するとともに、法然の浄土教が広く知られるようになってきた。快慶の代表作に兵庫浄土寺の阿弥陀三尊像がある。この中尊は五メートル三〇センチ、両脇侍は三メートル七一センチと大きく、中尊は逆手来迎印をとり、空中住立の姿を忠実に示したものである。快慶造立の阿弥陀仏像は実に多い。法然が活躍した時代は、快慶(安阿弥)が三尺の阿弥陀仏立像を数多く造立した時代と軌を一にしており、安阿弥様の仏像が急激に増加した。三尺の阿弥陀仏立像については、法然の『逆修説法』や『没後遺誡文』に記されており、文献の記述と作例とが一致していることは重視してよい。法然の一周忌を期して、源智は来迎印の三尺の阿弥陀仏像を造立し、数万人の交名帳を像内に遺したことは著名な事実である。その作風は安阿弥様といわれているが、快慶の弟子行快作であろうと推測されている。異論もあるが、快慶の系統であることだけは確かである。また愛知県美浜町の大御堂寺蔵の阿弥陀如来立像(寄木造、七九センチ)が快慶作であり、「親鸞上人御彫刻」の墨書と像内の銘文から、親鸞が師の法然の入滅に際し供養のために作った像と考えられる。
[阿弥陀仏像の種々相]
日本に伝承された阿弥陀仏像の形式、特に印相は多岐にわたる。奈良時代の阿弥陀仏像の多くは転法輪印を示し、定印は指先の変化まで入れれば多様である。来迎阿弥陀仏像には座像・立像・倚像・半跏像がある。来迎像は中国では見られないので、日本独自の形式と考えられる。この来迎像に分類されているものに、裸形阿弥陀、顧阿弥陀、歯吹きの阿弥陀、真如堂式阿弥陀、逆手来迎阿弥陀などがある。来迎印は弥陀迎接印や摂取不捨印ともいわれ、きわめて広範囲に用いられる。説法阿弥陀像は①大指(親指)・頭指(人さし指)を捻じ、両手を前に向けたもの。②大指・頭指を捻じ、右手を前に向け、左手はうちに向けたもの(当麻曼陀羅様)。③大指・無名指(くすり指)を捻じ、両手を前に向けたもの。④大指・中指(なか指)を捻じ、両手を前に向けたもの。両手を胸前に合わす印は平安朝初期までは説法印といわれるように変化がともなう。
以上の分類に入らないものとして施無畏与願印、宝冠(紅頗梨)、五劫思惟の阿弥陀仏像がある。施無畏与願印阿弥陀仏像は諸仏と共通の印相で、両掌を外に向け、右手の五指を開き、胸の前で軽く開いて曲げ、左手も下に垂らすか、膝の上に置くものである。宝冠阿弥陀仏像は密教系のもので、定印と説法印とがあり、定印には紅頗梨阿弥陀仏像があり光背も円形でまさに真紅である。五劫思惟阿弥陀仏像は『無量寿経』の説示に基づいたもので、定印と合掌するものとがある。山越阿弥陀は、その絵画性が広く絵解きに用いられている。山越阿弥陀図屛風(金戒光明寺)の阿弥陀仏像は胸前で両掌を外に向け、大指と頭指とを捻じる説法印である。その上、正面の指の部分に五色の糸が見えることから、実際に、臨終を迎えた信者が、ねんごろに阿弥陀仏にすべてを任せたことが理解できる。それに対し、禅林寺の山越阿弥陀(絵)像では、両脇侍が雲に乗り山を越えて、来迎を強調する。ここに至ると、阿弥陀仏については、単なる説法印というのではなく、脇侍の来迎の姿と合わせて考えなければならない。このように印相の変遷は複雑な要素をもっている。善光寺式阿弥陀如来像は一光三尊といわれ、一つの光背に三尊仏が包まれている。一般には、甲府善光寺、鎌倉円覚寺の一光三尊仏が知られているが、その数は実に多い。一光三尊仏は阿弥陀仏像の形式が、印相のみで決定できないことを示すものである。東京浄真寺は俗に九品仏と呼ばれ、元禄のころ、珂憶の時、三仏堂を建立し、上品堂・中品堂・下品堂と三堂を建立し、従来にはない印相で阿弥陀仏像を区分けしている。
[阿弥陀仏像制作の由縁と展開]
阿弥陀仏像は、死者の霊を弔うための追善の造像が主流であったが、鎌倉時代になると滅罪生善の考えと相俟って、念仏する一般庶民が増加するに合わせて、伝統的な阿弥陀仏像が、各自の自由に任せて受けとられ、造立・造画されていった。また阿弥陀仏像を礼拝する代わりに、阿弥陀仏の種子(梵字)や六字名号なども礼拝対象となっていった。種子については阿弥陀仏の種子(キリーク・[悉曇:hrīḥ])と脇侍(サ・[悉曇:sa]、サク・[悉曇:saḥ])の梵字を尊崇するようになる。名号については「南無阿弥陀仏」の六字名号、「南無不可思議光如来」の九字名号、また「帰命尽十方無礙光如来」の十字名号などがあり、浄土真宗では親鸞の書写を礼拝の対象とする。
【資料】『覚禅鈔』、『仏像図彙』
【参考】光森正士『阿弥陀仏彫像』(東京美術、一九七五)、同『阿弥陀如来像』(『日本の美術』二四一、至文堂、一九八六)、石上善應「日本における阿弥陀仏像の再整理」(『仏教文化研究』四七・四八、二〇〇四)【図版】巻末付録
【参照項目】➡本尊、運慶、九体阿弥陀、裸形阿弥陀、顧阿弥陀、歯吹きの阿弥陀、真如堂式阿弥陀、逆手来迎阿弥陀、来迎印、山越阿弥陀図、源智上人造立阿弥陀如来立像、施無畏与願阿弥陀、宝冠阿弥陀、五劫思惟阿弥陀、阿弥陀三尊像、快慶、安阿弥様、善光寺式阿弥陀
【執筆者:石上善應】