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阿弥陀三尊像

提供: 新纂浄土宗大辞典

あみださんぞんぞう/阿弥陀三尊像

中尊を阿弥陀仏とし、その左右に両脇侍を配する彫塑像や図像。普通は仏の左に観音、右に勢至を配するが、後世脇侍は多様化し、観音・金剛手、如意輪観音・地蔵、十一面観音・勢至、観音・地蔵、文殊・弥勒龍樹・地蔵などが配置されるようになった。『四十八巻伝』一三に「脇士は観音・地蔵を安置」(聖典六・一四六)とあるのは、その一例である。『観経』には、観音の天冠(宝冠)に化仏が、勢至には宝瓶ほうびょう水瓶)があると記され、両者の違いが分かる。

阿弥陀三尊の形式は、インドではアジャンター第九窟の壁画に見られる。中国では、隋・唐の時代以降盛んになった。中国甘粛省永靖県にある炳霊寺へいれいじ石窟第一六九窟六号龕の塑像は四二〇年頃の制作として知られている。韓国の七世紀後半の八公山石窟にある軍威石窟三尊仏は、中尊は降魔坐形式ではあるが脇侍化仏宝瓶をもつことから、観音・勢至を脇侍とした阿弥陀三尊と考えられている。日本では法隆寺献納宝仏第一四四号像(七世紀中葉)が古く、ついで厨子阿弥陀三尊比丘像や塼仏せんぶつ阿弥陀三尊比丘像(共に法隆寺蔵)で、三尊形式といえる。『日本書紀』三〇の持統天皇三年(六八九)夏四月に新羅より金銅の阿弥陀像・観世音菩薩像・大勢至菩薩像、各一軀が献じられたとある。また、法隆寺金堂壁画阿弥陀浄土変相図でもあり、昭和二四年(一九四九)の火災でその美しさは失われたが、基本的図像は理解でき、当時の阿弥陀仏説法印の形が知られる。橘夫人念持仏と伝えられる阿弥陀三尊像(銅造、鍍金、像高中尊三三・三、脇侍二七・〇センチ、法隆寺蔵、国宝)は銅製の蓮池から生じた蓮華の上に三尊像を安置し、蓮華化生の人物を浮彫にした後ろの屛風も実に精巧であり、白鳳時代の童顔と共に、七世紀末から八世紀初めの頃の制作であることは間違いない。この頃より、日本では浄土教信仰も盛んとなり、阿弥陀三尊像も多く造立された。平安末から鎌倉初期に活躍した運慶は東国で仏像制作に従事した。その中に和田義盛よしもり発願浄楽寺(横須賀市芦名)の檜材の寄木造阿弥陀三尊像(国重要文化財)がある。岩手県平泉町にある中尊寺の中心である金色堂はいわゆる阿弥陀堂であり、藤原三代が極楽浄土荘厳をもって造立した。中心に阿弥陀三尊を配置し、清衡、基衡、秀衡の遺体を納めている。この阿弥陀三尊を中心として、その両脇に六地蔵や二天王の一一体を安置している独特の造りである。平家によって焼失した東大寺伽藍再建のため大勧進職になった重源は、宋から渡来した工匠などを用いて、兵庫の浄土寺に大仏よう天竺様)と呼ばれる快慶作の新様式で浄土堂を建立し、新しい作風の阿弥陀三尊像を安置した。三軀とも漆箔で寄木造。円形の須弥壇台座を貫いて頭部までという、きわめて珍しい安定した方式を用いていた。須弥壇浄土堂の中心に正面を東向きに安置され、西方の光線が後ろから入る三尊像が見事に配置されている。中尊は逆手さかて来迎印をとっている。山越阿弥陀図で知られる鎌倉時代以降に流行した阿弥陀来迎図も、阿弥陀三尊像であり、さまざまな来迎図が展開している。鎌倉市の浄光明寺阿弥陀三尊像は珍しい光背をつけ、しかも説法印をとっている。本尊の衣には、日本では一三世紀から一四世紀にかけて鎌倉周辺にのみみられる独特の土紋様式をつけ、きわめて大きく、金泥仕上げであるだけに、制作当時としては斬新な仏像であったことが分かる。阿弥陀三尊像の中で、特殊な形式をしているものとして、善光寺式阿弥陀三尊像がある。長野・善光寺秘仏阿弥陀三尊の模像であるが、基本的には一光三尊立像の形式である。中尊は右手を胸の前に挙げ、指を全部伸ばす施無畏印、左手は下げて第二指と三指を伸ばす与願印の一種である。両脇侍は胸の前で両手を重ねる梵篋ぼんきょう印を結び、三尊ともにかえり花座に立っている。この形式は鎌倉時代から流行し、その中で、甲府市善光寺町の善光寺本尊や鎌倉市山ノ内の円覚寺にあるものが、特に著名である。

なお、西夏(一〇三八年建国—一二二七年滅亡)のハラホト(またはカラ・コト)から発掘された阿弥陀来迎図が複数ある。この来迎図の阿弥陀立像の白毫から左下(地上)で臨終を迎える者に白光が届いている。阿弥陀の前に観世音と大勢至が両手で黄金の蓮台を捧げ持っている。白光はその所が大きくふくらみ、臨終者の魂と思われるものが遊離して、小さな子供として合掌している姿を包み、その蓮台に坐らせようとしている。具体的な臨終の図であり、阿弥陀三尊来迎図として興味深い。


【参考】奈良国立博物館編『阿弥陀仏像』(東京美術、一九七五)【図版】巻末付録


【参照項目】➡阿弥陀仏像善光寺式阿弥陀


【執筆者:石上善應】