「兜率天」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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とそつてん/兜率天
三界の中の欲界に在って、六欲天のうちの第四位に位置し、一生補処の菩薩の住処とされる。また弥勒信仰と深く結びつき、兜率天に上生した弥勒菩薩が天宮をかまえて常時説法し、有縁の衆生を救済する処となった。兜率はⓈTuṣitaの音写で、知足、妙足、喜足などと訳し、都率天、兜率陀、知足天、弥勒浄土など様々な呼称がある。弥勒信仰を説く経典は多数あるが、沮渠京声訳『弥勒上生経』、伝・竺法護訳『弥勒下生経』、鳩摩羅什訳『弥勒成仏経』は弥勒の三部経と称される。一般に弥勒信仰には、釈尊滅後五六億七千万年の後に弥勒菩薩が兜率天から娑婆世界に下ってきて衆生を済度することを待望する下生信仰と、死後に兜率天宮に生天して下生するまでの間、弥勒菩薩の教化を受けようとする上生信仰の二種類があり、兜率天が重視されるのは主として後者の思想である。『弥勒上生経』には、釈尊が阿逸多(弥勒)の死後の受生について、「此の人、今より十二年後命終し、必ず兜率陀天上に往生することを得」(正蔵一四・四一八下)と言い、続けて、弥勒菩薩が上生したときの光景を描写し、兜率天において五百億万の天子が一生補処の弥勒菩薩を供養するために天の福力をもって宮殿を作ることや、宝宮、七重の垣、光明、蓮華、行樹、五大神(宝幢・花徳・香音・喜楽・正音声)など、兜率天宮の荘厳相が種々に示される。さらに兜率天への上生もしくは往生を願う者の生因として、念を行像にかけて弥勒の名を称えることや六事法(戒行・塔行・供養行・等持行・誦経行・読経行)、十善などの諸功徳を積む者は必ず兜率天に生じ、未来は弥勒にしたがって閻浮提の娑婆世界に下生することができるという。インドでは無著の頃までに弥勒信仰が広い地域に伝播していたであろうことが、玄奘『大唐西域記』の記事から知られる。中国では東晋代の釈道安が弥勒の像を作って信仰し、その弟子たちも兜率天への上生を願ったとの記録があり、早くから弥勒信仰の事跡がみられる。また、瑜伽行派の祖である弥勒と同一視して崇められていた経緯から、玄奘や基など法相宗の諸師には兜率願生を信仰する者が多かった。隋代から唐代にかけて、弥陀浄土と弥勒浄土の優劣を争う議論が、道綽、吉蔵、迦才、懐感、智儼、基などの諸師において盛んに論じられた。日本では古くは飛鳥時代からその信仰が始まり、平安期は法相宗系の僧侶を中心として、弥陀信仰や釈迦信仰をはじめとする諸思想と混合しながら広がりをみせ、最澄や空海にもそれぞれの思想的立場から弥勒信仰があったとされる。鎌倉期以後、貞慶、明恵、宗性らによって弥勒浄土に関する教理が明確にされたが、その後は大きな思想的展開がみられなくなった。
【参考】松本文三郎『弥勒浄土論』(丙午出版社、一九一一、後に『弥勒浄土論・極楽浄土論』平凡社、二〇〇六)、平岡定海『日本弥勒浄土思想展開史の研究』(大蔵出版、一九七七)
【執筆者:工藤量導】