業成
提供: 新纂浄土宗大辞典
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ごうじょう/業成
往生の業が成就すること。すなわち往生できることが定まること。業事成弁、業道成弁の簡略形とされる。業事成弁の語義については、聖冏は「所修の行業が究竟円満すること」であって、かつ「悪業が除滅消尽した当果無礙の位」(『糅鈔』浄全三・一〇三九上)であると定義する。業成の概念は既に『観経』の「汝まさに念を繫けて、諦かにかの国を観ずべし。浄業成ぜん者なり」(聖典一・二九一/浄全一・三九)の一文に見られるが、語句自体は曇鸞の『往生論註』上巻末尾に現れる。阿弥陀仏から思いをそらさず十念する方法について答える中、「経に十念と言うは業事成弁を明かすのみ。必ずしも頭数を知ることを須いず。…十念業成とはこれまた神に通ずる者、これを言うのみ。但だ念を積みて相続して他事を縁ぜざれば便ち罷みぬ」(浄全一・二三七上)、すなわち「十念」というのは往生の業が成就することを述べているのであって、十という数に特に意味はなく、十念で業成するとは仏の立場からの言葉であり、私たちはただ念ずることが大切という趣旨の一節である。続く道綽も『安楽集』で念を相続して他のことに思いを逸らさなければ業道成弁となると述べ(浄全一・六七六上、六八七下)、善導も「心を持して散ぜざれば還て成ず。業成すれば仏華台主を見たてまつる」(浄全四・二四下)と同趣旨のことを説く。
このように曇鸞・道綽・善導、更には他の法然以前の浄土教の人師において既に業成という概念は用いられていた。ただし、この業成が浄土教学のテーマとして強く意識され出すのは法然以降である。法然は業成に関し、それは臨終か平生かという問題を提起し、臨終・平生のいずれにも起こりえると明言した。そのことは『念仏往生要義抄』の「平生の念仏、臨終の念仏とて、何の替り目かあらん」(聖典四・三二八/昭法全六八六)、『つねに仰せられける御詞』の「往生の業成就は、臨終平生に渡るべし。本願の文簡別せざる故なり」(聖典六・二八一/昭法全四九四)などから知られる。ここには平安浄土教が基本的に業成は臨終と見なしていたのに対する法然独自の立場が示されている。
そしてこの問題は、法然門下においても意識される。良忠は平生・臨終の両者を認めるのに対し(『往生論註記』浄全一・三〇七下)、隆寛は善導・懐感等を除けば、普通の者は臨終の一念で業成すると説く(『散善義問答』、平井正戒『隆寛律師の浄土教』所収「隆寛律師遺文集」六三下)。一方、機法一体の名号の謂われを心得るとき即便往生とする証空、仏智の一念との冥合による往生決定を説く幸西、現生正定聚を説く親鸞などは、平生業成の立場ということになる。
このような平生・臨終の問題と並んで、業成が一念・多念のいずれによるかという問題も、門下・門流の間で重要な論点となった。幸西・行空などの一念義や、尋常にせよ臨終にせよ一念での往生決定を説く隆寛などは一念業成、多念を基本とする鎮西義は多念業成といえる。ただし、その多念業成の鎮西義の良忠門下において、往生決定の時期・過程に関し、多念業成と一念業成の両説が生じることとなる。ここでいうところの多念業成・一念業成はいわゆる往生に多念が必要か一念でよいかという一念・多念の問題ではなく、多念を基本としつつも往生が定まるのは一念(瞬時)か、多念を経るうちに段階的に定まる(漸次)かという問題といえる。まず名越派尊観が白旗派良暁の説を批判する目的で『十六箇条疑問答』を著し、その中で三心具足すればその最初の一念で業成すると主張した。それに対し、良暁は『浄土述聞鈔』を著し、三心具足の念仏は往生の因とはなるが、業障が滅尽して初めて業成となるのであって、その遅速は機根によって差があるとした。良暁はこの書に加えて「追加」「見聞」「口伝切紙」「副文」などの補足文献を著し、更に七祖聖冏は『浄土述聞口決鈔』の上巻の全てを費やして論を展開した。一方、名越派ではこの問題に関し、慈観『十六条事』、良慶明心『果分不可説』、良栄理本『十六箇条疑問答見聞』などが著された。この他、藤田派の持阿良心は『選択決疑鈔見聞』(浄全七・七四〇上〜五下)において両派の説を批判して、折衷説を主張した。また三条派の道光は『選択集大綱抄』(浄全八・五五上〜八上)において、一念業成を基本としつつ、業成後の悪業によって業成を退転させる可能性があるから、生涯念仏を続けるべきであるとした。いずれにせよ、三心具足の念仏=業成といえるか否かが問題となっているのであるが、良忠自身は「大旨は異ならず」(『往生論註記』浄全一・三〇七下)と述べ、両者の間に大差はないとする。なお、法然直弟の竹谷の乗願房も白旗派同様、三心具足と業成とを異なるとしたが、決定因成熟以前の三心具足の念仏を生因としないとみなす点で、白旗派とは相異するとされる(聖冏『浄土述聞口決鈔』浄全一一・五八八下~九下)。
【参考】長谷川篤雄「記主門下の業成論」(浄土学四、一九三二)、岸覚勇「浄土列祖に於ける業事成弁論」(同『浄土宗義の研究』一、記主禅師鑽仰会、一九六四)、梶村昇「良忠上人門下の一念・多念業成論」(『良忠上人研究』大本山光明寺、一九八六)、沼倉雄人「良忠の業成論」(印仏研究五九—一、二〇一〇)
【参照項目】➡平生の機・臨終の機、一念多念、一念業成・多念業成、万機一念成
【執筆者:安達俊英】