仏教音楽
提供: 新纂浄土宗大辞典
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ぶっきょうおんがく/仏教音楽
仏教に関する音楽。宗教音楽の起源は、神々に対する祭祀や礼拝に由来する純粋な歌唱である。「うた」から始まると言われる古代インドの音楽はバラモン教の教典ヴェーダの賛歌の朗唱に代表され、現代に伝承されている。仏教教団成立以前にインドの祭祀音楽はほとんど完成の域に達していた。釈尊の説法に節を付けて朗唱することはごく自然に発生したと考えられ、このような諸種の仏教声楽が梵唄であり、後の声明で、仏教音楽の中心である。『増一阿含経』二三増上品三一に「目連の弟子と阿難の弟子と、二人共に談るらく、我等二人、同声に経唄を誦せん、誰れか勝れん」(正蔵二・六七三中)とあり、目連と阿難が梵唄を競い合った記録がある。また、布教のために異教徒に倣って唄を美音で唱することが積極的に奨励されていて、跋提・善和という梵唄の名手が存在した。しかし、仏道修行の支障となる場合は音楽は禁制された。釈尊滅後、その供養塔で舞伎音楽をもって仏塔が供養された。アショーカ王やカニシカ王の仏教保護により大規模な法要が行われるようになり、七世紀密教の興隆により、もともと楽器の豊富なインド音楽とヒンドゥー教その他から多くの音楽文化を吸収し、仏教音楽は飛躍的に発展していった。それら種々の楽器はハープ型・のちにリュート型弦楽器、ホラ貝、笛、鼓、鈸、ホルン、トランペットなどたくさんのものが教典・彫刻・浮彫にみえ、チベット、ネパール、中国、セイロン、タイ、インドネシア、ベトナム、日本にも伝搬され、その各国において、その国の伝統的な音楽と結びついて独自のものになった。
中国に伝搬した梵唄は中国人には難解であったが、これを中国化した第一人者である魏の武帝の第四子陳思王曹植は、魚山で空中に梵天の音を聞いたといわれ、梵唄の名人でもある。唐以前に儀式音楽専門家「経師」の存在があった。唐代に国家の保護のもと最盛期を迎えるが、武宗の会昌五年(八四五)の廃仏により衰退する。
日本では奈良朝になって、遣唐使によって唐の仏教が輸入され、唐僧の来朝によって儀式音楽が整備された。天平勝宝四年(七五二)東大寺大仏殿開眼供養会では伎楽や外来楽舞によって「四箇法要」が勤められ、「仏教が東方に移ってから、このような盛大な儀式はいまだかつてみない」(『続日本紀』)と記されているように、国家的行事であった。やがて大会では、雅楽が法会の式次第と一体化して、舞楽・法要中の奏楽はじめ、法会の荘厳化に不可欠なものとなり、仏教音楽となった。これにより奈良声明が成立する。延暦二三年(八〇四)、最澄・空海が入唐し、声明をわが朝に伝えた。その後、真言宗は寛朝、天台宗は円仁・良忍という声明の大家が輩出し、それぞれ独自の声明を確立し、今日各宗の声明に伝えられる。浄土宗は天台声明の魚山声明の流れを汲み、知恩院の祖山声明、増上寺の縁山声明、鎌倉光明寺の引声が伝承されている。声明は仏教音楽の代表的なものであり、そのなかの講式は、「語り物音楽」の原型となる「平曲」を生み、そして平曲が「浄瑠璃」「歌舞伎」という劇場音楽となり、さらに「歌い物音楽」という近世邦楽を築いたといえる。このように日本音楽と芸能は、声明をはじめとして仏教音楽を抜きにしては成立しなかったといえる。明治維新で、西欧化の波によって伝統音楽は衰退したが、岩井一水が『仏教音楽論』(法蔵館、一八九四)を刊行し、原青民・梶宝順・来馬琢道が仏教音楽会を創設して仏教音楽の革新と仏教音楽書の刊行によって仏教唱歌を普及させた。近年、ピアノ・キーボードなどによって、西洋音楽・楽理を加味した仏教音楽、また詠唱の音楽法要が行われている。そして、楽曲が西洋楽曲風の形式で、ステージ演奏方式の芸術音楽も盛んになっている。これらは教化・布教伝道楽としての広義の仏教音楽といえる。
【参考】片岡義道『叡声論攷 仏教学・音楽学論文集』(国書刊行会、一九八一)、中西和夫『仏教音楽論集 華頂山松籟攷』(東方出版、一九九八)、上原陽子「インドの宗教音楽」(東洋音楽学会編『仏教音楽』音楽之社、一九七二)、田中健次『図解 日本音楽史』(東京堂出版、二〇〇八)
【執筆者:渡辺俊雄】