円仁
提供: 新纂浄土宗大辞典
えんにん/円仁
延暦一三年(七九四)一〇月二三日—貞観六年(八六四)一月一四日。比叡山延暦寺第三代座主で天台宗山門派の祖。慈覚大師。比叡山横川を開いた人物。下野国都賀郡(栃木県下都賀郡)に壬生首麻呂の子として生まれ、九歳で同郡の大慈寺の広智の室に入る。一五歳で比叡山に登り、最澄に師事して止観について学ぶ。弘仁五年(八一四)得度。同七年、東大寺で具足戒を受け、その翌年最澄の東国巡錫に随い、下野大慈寺において円頓菩薩戒を受ける。その後、師の教えを守り、四種三昧を修練するとともに天台の法門の弘通に努める。承和二年(八三五)勅を受けて遣唐使に加わり、三度目の航海で同五年ついに入唐を果たす。天台山訪問を強く望むが許可されず五台山を巡礼し、長安に長く留まる。同一四年、会昌の法難により帰朝。この入唐の記録を記した『入唐求法巡礼行記』は有名である。灌頂や授戒を活発に行い、仁寿四年(八五四)天台座主に補任される。没後の貞観八年(八六六)には慈覚大師の諡号が授けられる。円仁は経書五五九巻や金剛界曼荼羅、声明など多くのものを日本にもたらし、天台密教を大成した。また浄土教に関する功績としては、五台山の念仏三昧法の請来が挙げられる。帰朝した翌年に常行三昧堂を建て、仁寿元年(八五一)この法を弟子たちに伝授して始修した。以来比叡山では、この法に則る不断念仏が常行三昧として修されるようになった。法然は『四十八巻伝』二四で、『阿弥陀経』が広く日本に流布した由来を「ことの起こりを尋ぬれば、叡山の常行堂より出でたり。彼の常行堂の念仏は、慈覚大師、渡唐の時将来し給える勤行なり」(聖典六・三五三)と説明し、また聖道門の難しさを説く際には「慈覚大師は常坐三昧に当たりて修行し給いけるに、常坐難行なりとて改めて常行三昧となる」(聖典六・三五九)と、円仁自身も四種三昧のうちの常行三昧を選び取ったと述べている。このように円仁は、阿弥陀仏の名号を称え続ける不断念仏を比叡山に持ち込んだ天台浄土教の第一人者であり、後の浄土宗においても重要視される。また法然は臨終の際に、円仁の九条の袈裟をまとったという(『四十八巻伝』三七、聖典六・五八八)。
【参考】佐伯有清『人物叢書 円仁』(吉川弘文館、一九八九)
【参照項目】➡引声阿弥陀経一、引声念仏、常行念仏、大師号、不断念仏、入唐求法巡礼行記
【執筆者:齋藤蒙光】