本来は学徳にすぐれた一座の主を意味した。平安初期以来、大寺院の法務を主管する僧侶の公称となる。天長元年(八二四)義真が延暦寺で天台座主を私称したことに始まるという。斉衡元年(八五四)、円仁が官命によって座主に任ぜられ、以降、延暦寺の貫首の正式な名となった。その後、金剛峯寺、醍醐寺、大伝法院(根来ねごろ寺)などにも座主職が設置された。この職には学徳が求められたが、摂関・院政期以降は天皇や貴族の子弟で座主になるものが増加した。
【執筆者:舩田淳一】