十念異解
提供: 新纂浄土宗大辞典
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じゅうねんいげ/十念異解
十念についての種々異なる理解のこと。浄土所依の経典である『無量寿経』の第十八願には「乃至十念」とあり、また『観経』に「至心に、声をして絶えざらしめ、十念を具足して、南無阿弥陀仏と称す」(聖典一・三一二/浄全一・五〇)とあるこの「乃至十念」や「具足十念」の「十念」はどのような意味で用いているのかについて種々の解釈が見られる。①曇鸞は『往生論註』上(浄全一・二三七上)において「百一の生滅を一刹那と名づけ、六十の刹那を名づけて一念となす。この中の念と云うは此の時節を取らざるなり。但だ阿弥陀仏を憶念するを言うのみ。若しは総相、若しは別相、観縁する所に随いて、心に他相なく、十念相続するを名づけて十念となす。但だ名号を称うるも亦復是の如し」といい、「経に十念と言うは業事成弁を明かすのみ。必ずしも頭数を知ることを須いざるなり」としている。つまり曇鸞は「十念」の「念」を「但だ阿弥陀仏を憶念する」ことであるとし、心に阿弥陀仏以外の他の相を起こすことなく、阿弥陀仏を憶念相続するのを十念と名づけた。また「十」を満数とみて業事成弁ができるまで阿弥陀仏を観縁することであるとした。これはまた憶念のみならず称名念仏する場合も同じである、という。②道綽は『安楽集』上に「大経に云く若し衆生有りて縦令い一生悪を造るとも命終の時に臨んで十念相続して我が名字を称せんに若し生ぜずんば正覚を取らず」(浄全一・六九三上)といい、十念を称名の意に理解している。③善導は『観経疏』玄義分において「一心に信楽して往生を求願すれば、上、一形を尽し下、十念を収む。仏の願力に乗じて、皆往かずということ莫し」(聖典二・一六七/浄全二・四上)といい、また念仏別時意釈では「今この『観経』の中の、十声の称仏は、すなわち十願十行有って具足す。云何が具足する。〈南無〉と言うは、すなわちこれ帰命、またこれ発願回向の義。〈阿弥陀仏〉と言うは、すなわちこれその行なり」(聖典二・一八二/浄全二・一〇上)といい、本願の「乃至十念」と『観経』の「具足十念称南無阿弥陀仏」とを結びつけて解釈し、十念とは「上尽一形下至十声一声」に通じるものであり、「十声の称仏」としてとらえている。十念とは南無阿弥陀仏と一〇回声に出して称えることであるとするのである。④新羅の元暁は『無量寿経宗要』(浄全五・八三上)で『弥勒発問経』に説く十念を隠密の十念といい、『観経』に「令声不絶具足十念」とあるのを顕了の十念といっている。⑤法位の『無量寿経義疏』上(長西『念仏本願義』所収)はほとんど元暁と同説である。⑥懐感も『群疑論』五(浄全六・六七下~八上)で『弥勒発問経』の十念を引いているが元暁のように、顕了・隠密に分けてはいない。⑦義寂の『無量寿経述義記』中(長西『念仏本願義』所収)では『観経』の具足十念を時間的に解釈して、南無阿弥陀仏の六字の名号を称する間を一念と名づけ、このようにして十遍ほど名号を称する間を十念としている。⑧『楽邦文類』四(浄全六・一〇五六上~下)には、宋初期の遵式の晨朝十念法がある。この十念法は、毎朝西方に向かって正立合掌して、一息の続く限り南無阿弥陀仏と声を出して称えることを一念と名づけ、十息続けることを十念と名づけている。⑨法然は『選択集』三で「念声はこれ一なり」(聖典三・一二二/昭法全三二一)といい、さらに「念はすなわちこれ声」(同)であるとのべて、善導の説に基づき十念を十声の称仏と解する。⑩法然門下では西山・真宗に各自の説があり、三祖良忠門下にもそれぞれの説がある。名越派は一念業成、白旗派は十念を満ずることとしてそれぞれ理解している。
【参考】望月信亨『浄土教の研究』(日本図書センター、一九七七)
【参照項目】➡十念二三
【執筆者:金子寛哉】