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西光寺

提供: 新纂浄土宗大辞典

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さいこうじ/西光寺

東京都墨田区千歳。東日山正明院。東京教区№二三七。慶長一一年(一六〇六)創建。開山の英松は三河国の出身で、増上寺存応に師事した。開基は小林休西で、本深川新田開闢かいびゃくのとき、荒廃地を開墾し一宇を建立し英松を招いた。歴代住職渡辺海旭武田泰淳がいる。


【資料】『浄土宗寺院由緒書』下(『増上寺史料集』七)、『江戸府内寺社書上』(『江戸浄土宗寺院寺誌史料集成』)


【執筆者:福田行慈】


長野市北石堂町。苅萱かるかや山寂照院。長野教区№四二。善光寺と長野駅を結ぶいわゆる表参道沿いに位置し、謡曲説経節の題材として知られる苅萱道心石童丸(石堂丸)親子ゆかりの古刹。建立を正治元年(一一九九)、開山苅萱道心とする。本尊苅萱親子地蔵尊二体のうち木造苅萱地蔵像は鎌倉後期までは下らないという。「苅萱道心石童丸御親子御絵伝」二幅(江戸時代)を用いた絵解きで知られ、その口演は貴重な研究資料となっている。


【資料】『蓮門精舎旧詞』二五


【参考】林雅彦・徳田和夫編『伝承文学資料集第十一輯 絵解き台本集』(三弥井書店、一九八三)


【執筆者:袖山榮輝】


石川県七尾市小島町ハ部。宇賀山徳岸院。石川教区№三三。開山は感叡。感叡は奥州藤原氏、藤原四世の孫と伝えられる。正和五年(一三一六)頃、七尾城主畠山氏より領地を賜り建立したが、前田利家の七尾入城の際、現在地に移築された。元禄六年(一六九三)には能登の触頭ふれがしら寺院を拝命していたことがわかる。安土問答での勝利で一躍名を轟かせた貞安西光寺一〇代である。


【資料】『浄土宗寺院由緒書』中(『増上寺史料集』六)、「能登国七尾市寺院明細帳」(『加越能寺社由来』下)


【参考】『石川県鹿島郡誌』(財団法人鹿島郡自治会、一九二八)、宇高良哲「浄土宗の触頭制度について」(『法然浄土教の綜合的研究』山喜房仏書林、一九八四)


【執筆者:高田光順】


福井県坂井市三国町南本町。金谿山清向院。福井教区№一。当寺二世の英誉総通が病気療養のため三国湊に到った際、江波道閑・三右衛門父子の帰依を得て寛永五年(一六二八)当寺を建立、師である鎌倉光明寺三二世・福井運正寺四世源誉随流開山として請じた。のち正保三年(一六四六)現在地を新たに開いて移転。安永三年(一七七四)から続け様に三度の火災に遭ったが、寛政年間(一七八九—一八〇一)に諸堂を再建した。現存する伽藍はこの時のものである。


【資料】『浄土宗寺院由緒書』中(『増上寺史料集』六)


【執筆者:坪井剛】


滋賀県蒲生郡竜王町山之上。法性山。滋賀教区№一〇三。もと矣礼山法満寺の五所の別院中の尊乗寺であると伝えられ、法相真言兼学の古刹であったが、応徳二年(一〇八五)焼失し、後に秀誉玉透により開創された。承応元年(一六五二)八世超誉は中興の大願を懐いて毎朝托鉢の後、朝食前に諸人を勧誡して茶漬談義と称した。その徳化により万治年間(一六五八—一六六一)に壮麗な伽藍を建立して大いに栄えた。一一世湛誉は後陽成天皇の曽孫に当たり、知恩院初代門跡良純法親王の孫にして、爾来その法孫は当寺において剃髪し、湛の一字を拝受することが慣例となり現在に至る。宮中より賜ったと伝えられる良純法親王の尊牌は今も奉祀されている。寺宝に同法親王御影、懐紙、後陽成天皇の御宸筆などがあり、湛誉祈願の厄除地蔵尊が境内にまつられている。


【資料】『蓮門精舎旧詞』四四(続浄一九)、『浄土宗寺院由緒書』上(『増上寺史料集』五)、『平成の道標』(大阪教区浄土宗青年会、一九九〇)


【執筆者:藤野立徳】


滋賀県近江八幡市中村町。竜亀山。滋賀教区№一四二。『信長公記』等によると、天正七年(一五七九)の安土宗論に勝った貞安が、恩賞として織田信長より安土城大手前の田中に寺地を与えられ、堂宇を建立したことが起源とされる。同一三年に正親おおぎまち天皇の勅願所となり、その翌年、豊臣秀次の八幡城下形成に伴い安土から現在地に移転。同一八年には後陽成天皇の勅願所とされる。江戸時代を通じ中村地内に高一一石四斗余りの朱印地を有し、四箇寺の末寺を擁した。触頭ふれがしら寺院であった。平安時代作の木造地蔵菩薩坐像は国重要文化財。


【資料】『蓮門精舎旧詞』四五、『浄土宗寺院由緒書』上(『増上寺史料集』五)


【参考】『近江蒲生郡志』七(弘文堂書店、一九七二)


【執筆者:曽田俊弘】


京都市東山区清水。大悲山空也院。京都教区№一二六。空也開基と伝えられ、もと山科東野にあったが寛延二年(一七四九)遠誉によって現在地へ移された。昭和三〇年(一九五五)に第二次大戦によって焼失した増上寺の新本堂(当時)の本尊として、当寺の阿弥陀如来坐像が請来された。現在は増上寺大殿三階道場本尊として祀られている。また境内には空也上人廟があり、傍らに黄檗おうばく高泉和尚撰文、黒川道祐裏銘の碑がある。


【資料】『蓮門精舎旧詞』二(続浄一八)


【参考】『大本山増上寺史』(大本山増上寺、一九九九)


【執筆者:髙橋徹真】


京都市右京区太秦うずまさ多藪町。来迎房。京都教区№四八二。新撰元祖大師二十五霊場第一八番。嘉禄三年(一二二七)六月の法難のとき、安貞二年(一二二八)正月に粟生野あおの荼毘に付されるまで、法然の遺骸を一時隠した太秦広隆寺来迎円空の遺跡。本尊阿弥陀如来坐像台座背面に刻む天福元年(一二三三)の円空の銘文には、師の法然念持仏で、師の没後に請戴しょうさいして自らの室の本尊とし、また、法然舎利も請受し、終日目のあたりに亡き師にまみえるがごとく頂拝していたことを記す。本尊は藤原時代作の国重要文化財。宝塔に安置の法然舎利を伝える。


【資料】『四十八巻伝』四二、『翼賛』四二、五八、名村愚仙『円光大師御遺跡四十八所口称一行巡拝記』


【参考】貴船繁次編『太秦村誌』一(一九二四)


【参照項目】➡円空


【執筆者:山本博子】


大阪府池田市新町。不断山瑞雲院。大阪教区№二一〇。かつて一つの草庵があり、称名念仏する者があとを断たなかった。そのため不断堂と呼んだが、天文一五年(一五四六)、満誉祐円により精舎を造営して開創されたのが、西光寺である。知恩院の雄誉霊巌から、河辺等三郡の触頭ふれがしらに任命され、六箇寺の末寺があった。


【資料】『浄土宗寺院由緒書』上(『増上寺史料集』五)、『大阪府全志』三


【参考】宇高良哲「浄土宗の触頭制度について」(『法然浄土教の綜合的研究』山喜房仏書林、一九八四)


【執筆者:藤野立徳】


一〇

香川県仲多度郡まんのう町宮田。源海山(蓮界山)紫雲院。「宮田の法然堂」と通称。南海教区№二四。円光大師御遺跡四十八所の番外札所。法然建永の法難で流罪の途中に念仏教化した遺跡と伝える。寺伝によると、法然が讃岐国に滞在の間、善通寺を経て金比羅大権現に参詣の折、南の方に紫雲がたなびく所があり、その地を有縁の霊地として逗留して日夜別時念仏を修していると、奇瑞が現れ人びとはさぞや大徳であろうと、法然の化導を受けたという。


【資料】名村愚仙『円光大師御遺跡四十八所口称一行巡拝記』、中山城山『全讃史』八(『評註国訳全讃史』藤田書店、一九三七)


【参考】浄宗会編『円光大師法然上人御霊跡巡拝の栞』(知恩院、一九九六)、『配流八〇〇年追恩 讃岐の法然上人』(浄土宗南海教区教務所、二〇〇七)


【執筆者:山本博子】