祈願
提供: 新纂浄土宗大辞典
きがん/祈願
神仏に願い事が叶うように祈り願うことをいう。宗教の根幹をなすもので、祈誓・祈念・祈請・心願・祈り・祈禱などの類義語がある。ただし祈禱とは、一定の儀軌のもとに行われるものを指す場合が多い。キリスト教では「神と信仰者との対話」ととらえ、信仰は祈りにほかならないと説き、祈禱文を収録した「祈禱書」がある。一方、釈尊は吉凶禍福が三世因縁の業による果報とみて祈禱を重視しなかったと考えられるが、後に仏教でも祈禱が行われ、天台宗や真言宗など、加持祈禱を重視する宗派もある。法然は「祈によりて病も止み、命も延ぶる事あらば、だれかは一人として病み死ぬる人あらん」(『浄土宗略抄』聖典四・三六七/昭法全六〇四)と述べて、祈禱の妄信を戒める立場をとった。真宗では、祈禱を否定し、祈るよりも念ずるという語を用いた。なお、神仏に祈願をする場合、病気治しや商売繁盛、厄払いなど個人祈願が大半であるが、村落・集団・国家全体の安穏を願っての共同祈願も営まれる。その場合、たとえば、願かけをした神社仏閣に日参し、お百度をふみ、水垢離を行う。穀断ち・茶断ちなど、一般には断物というが、祈願に際して特定の飲食物を自ら断つことを誓約し、神社仏閣に用意された籠屋に一定期間閉じこもって、一般の人とは離れた生活を送るなどの風習があった。また、神仏に願かけし神仏の霊験で願が叶った場合には、「願はたし」がなされる。絵馬・旗・幟などを奉納し、あるいは心願が神仏に通じたのだから底を破ったのだと解釈されて底のぬけた柄杓や穴のあいた石などが奉納される。病気平癒を願って願かけしたが、死亡によって果たされなかった場合は、願を解くといって「願ほどき」がなされる。日本では、現在・未来の福徳・福祉を祈るために勅によって建てられた専用の施設として、祈願所・祈願寺・御願寺などがある。幕府や有力大名によっても祈願のために多くの建築物が建立された。
【参考】柳田国男「村と学童」、「村のすがた」(『定本 柳田国男集』二一、筑摩書房、一九七八)、大藤時彦「願はたし」(民間伝承の会『民間伝承』九—八、一九四三)
【執筆者:藤井正雄】