浄土宗
提供: 新纂浄土宗大辞典
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じょうどしゅう/浄土宗
[歴史]
阿弥陀仏の本願の他力念仏により浄土へ往生することを求める宗派で、法然によって確立された。淵源はインドの龍樹の難行易行二道、中国の曇鸞の自力他力二門、道綽の聖道浄土二門、善導の頓漸二教の判釈による。本願念仏が頓教であることは善導によって位置づけられていたが、浄土門(宗)としての独立性はなかった。法然が浄土宗を開くことを宣言した後、とくに南都北嶺からの批判が強くなり、貞慶は『興福寺奏状』において「第一に新宗を立つる失。…すべからく公家に奏して勅許を待つべし。私に一宗と号すること甚だ以て不当なり」(仏全一二四・一〇三下)と批判した。しかし『一期物語』によると法然が「若し天台の教相によれば凡夫往生をゆるすに似たりといえども浄土を判ずる事至て浅薄なり。若し法相の教相によれば浄土を判ずる事甚深なりといえども全く凡夫往生をゆるさず。諸宗門の所談異なりといえども惣て凡夫報土に生ずと云事をゆるさず」(昭法全四四〇)と当時の仏教界の状況を伝えているように、三学非器といわれる凡夫が報土に生まれる教えを独立させる必要性があった。それは「勝他の為にあらず」の立場で「一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥に時節の久近を問わず、念念に捨てざる者、是を正定の業と名づく、彼の仏の願に順ずるが故に」(聖典二・二九四/浄全二・五八下)との善導『観経疏』の一文による新しい宗派であり、承安五年(一一七五)に開かれた。開宗を宣言した法然は西山広谷に移り、ついで慈円の配慮で吉水に草庵を結んで布教した。建久九年(一一九八)九条兼実の請を受け『無量寿経』『観経』『阿弥陀経』と世親の『往生論』により主著『選択集』をまとめ、その相伝が弟子になされた。法然の教えは身分や老若男女出家在家等をこえ、人びとの心をとらえ急激に広まったが、次第に仏教界との摩擦も生じ法然や弟子の流罪の原因にもなった。法然は「念仏を修せん砌は皆これわが遺跡」(昭法全七二三)として特定の後継者を定めなかった。『没後遺誡文』には信空に委託されたとあるが、教えは入口や奥行の幅のある弾力的な表現がなされたので弟子たちの間で異論が生じた。
正嘉元年(一二五七)作の住信『私聚百因縁集』や正元元年(一二五九)作の日蓮『一代五時図』、応長元年(一三一一)作の凝然『源流章』などには聖光の鎮西義、隆寛の多念義、証空の西山義、長西の諸行本願義、幸西(含法本)の一念義の五流が示され、永和四年(一三七八)作の静見『法水分流記』には信空の白川門徒、親鸞の大谷門徒、湛空の嵯峨門徒、源智の紫野門徒が加わり九流となっている。法然滅後は百花繚乱、念仏の行を失ったと嘆いた聖光房弁長は熊本の往生院で二十数名と共に四十八日の別時念仏を修し、然師報恩を期して『授手印』を著し両手印を押して鎮西義の正統性を強調し伝承の基を築いた。門下の中でも教えをもっとも素直に受けた聖光は記主良忠に伝授した。良忠は上洛し、さらに関東において千葉一族の帰依を受けて布教した。ついで鎌倉に出て北条朝直の帰依のもと蓮華寺を建て布教基盤を確立した。博覧強記ともいうべき良忠は浄土祖師の著作の注釈を著し、浄土宗の教義を体系づけた。ここをもって二祖(善導、法然)、三代(法然、聖光、良忠)による浄土宗義の定判が確立した。日蓮との抗争もあったが、良忠の学徳が広く知られ多くの帰依者を得た。また京都の然空や慈心に請われ上洛し、著述と伝道に生涯をささげた。良忠には多くの弟子があり、中でも六人が派祖となった。寂慧良暁の白旗派、尊観の名越派、性心の藤田派の関東三派と然空の一条派、良空の木幡派、了慧道光の三条派の京都三派の六流である。良忠門下は互いに勢力を張った。性心は良忠のもとにあり、持阿など学僧を育てたが、関東他派に吸収された。尊観は東北に教線をのばし明心や妙観を輩出した。京都では木幡、三条は早くに衰え、一条派は然空の弟子向阿の活躍により清浄華院を中心として発展した。万里小路家が檀越となり次第に貴族化した。また隆尭は近江浄厳房、良如は越前西福寺を建立するなど発展した。知恩寺はその勢力を背景に知恩院と抗争したが、次第に衰えた。
良忠の後は最年少の良暁が継ぎ、のち名越派との論争があったが、次第に白旗派へ統摂されることとなった。弟子定慧は鎌倉で、蓮勝は太田に法然寺を開いて布教した。蓮勝の弟子了実は瓜連常福寺を創して教線を張った。法然が浄土宗の独立性を強調した後も周囲からは附庸宗とみられていたことに対し学問的に位置づけをはかったのが了実の弟子聖冏である。聖冏は三巻七書を定め五重相伝の伝法を確立した。弟子聖聡は増上寺を創建し江戸へ進出し将来への発展の礎を築き、門下の慶竺は京都へ行き白旗派の進出を果たした。良肇は飯沼弘経寺を建立して小田原へ進出、了暁は三河に進出して大運寺を建立し、ついで愚底は大樹寺を建て、松平一族の帰依を得て近世浄土宗の発展基盤を確立した。
徳川家康の宗教政策のもと浄土宗寺院が全国に成立したが、他宗と同様の勢力として浄土宗を位置づけたのは存応であり、徳川勢力のもと増上寺を総録所とし関東の基盤を築いた。徳川の檀家制度で俗化した僧風を祖師の精神にもどそうとして京都を中心とした捨世派興律派の粛正的、持律的な運動が起こったが、体制を変えるまでには至らなかった。
明治維新を迎えると、福田行誡等による僧風刷新が訴えられ教団の近代化が求められた。この時代には仏教界を牽引する多くの学者を輩出し、また光明会や共生会、真理運動等の新しい信仰運動も起こった。法然七五〇年遠忌を契機に分派していた寺院を浄土宗に一本化した。八〇〇年忌には信楽玉桂寺に伝えられていた源智の願文の胎内文書が入った阿弥陀仏像が知恩院に寄託され、また円光大師以来八つ目の大師号、法爾大師が諡られた。現代の宗教離れで、葬儀や墓無用論等がある一方で宗教が求められている世情をうけて浄土宗としても対応が求められる時代を迎えている。
【執筆者:福𠩤隆善】
[宗務機関]
1浄土宗の宗教上の事務を達成するための執行機関。浄土宗宗制発布の明治二〇年(一八八七)五月には、管長が主務大臣の認可を得て上任し、管長は列祖の洪範を継承し、教化を純正にして宗制によって一宗を統理した。宗務所は浄土宗最高の行政宗庁であって、管長が宗務を総攬し、一宗を統監する所とした。宗務所に法務局・教学部・人事部・社会部・財務部があり、執綱一名・部長四名・主事一名・管事四名・書記一二名以内および出仕雇員が置かれた。執綱は管長を補佐し、命を稟けて各部の統一を保持し、一切の宗務を総理し、その責に任ずるものであった。教学部長は布教教育および教学階に関する事務を監理し、布教教育に従事する職員を監督した。人事部長は風紀賞罰ならびに住職の任免その他僧籍に関する事務を監理した。社会部長は教区ならびに寺院仏堂に関する事務を管理し、財務部長は会計出納および課金義財の徴収に関する事務の管理のほか、地方教区の財務を監督した(明治四四年〔一九一一〕当時の宗務所職制による)。その後、昭和五年(一九三〇)宗務所職制改正により、宗務所に総務局・教学部・庶務部・財務部・社会課が設置され、執綱一名・部長三名・主事一名・管事三名・書記一〇名以内および出仕雇員が置かれた。従来の人事部、社会部の職務を庶務部の所管とし、社会課は執綱の管理に属し、その主任は社会事業に関する事務を掌り、総務局主事は執綱直属の書記官長、官房長官の役にあたった。その後職制に変更があり、執綱は宗務長、主事は総務課長となり、昭和三七年(一九六二)四月、宗務所は宗務庁となり、宗務総長・教学局長・総務局長、教学局に教化部長・学事部長、総務局に庶務部長・財務部長が置かれ、同四七年一二月には宗務総長・総務局長・教学局長・財務局長・社会局長・総長公室長を置くことに職制が改正された。
浄土宗の宗務は、宗務庁において執行される。宗務総長は宗議会において選出され、宗教法人「浄土宗」の代表役員となり、代表役員以外の責任役員を選任する。地方の宗務を処理するため地方を区分して教区を設け、教区の長として教区長を、その事務所として教務所を置く。海外における布教のためには開教区を設けることができる。
浄土宗は、すべての僧侶および檀信徒の総意によって運営される。僧侶の総意を代表する議決機関が宗議会であり、檀信徒の総意を反映する諮問機関を檀信徒評議会という。宗務庁の処務および職制に関する規程、教区に関する規程、宗議会規程、檀信徒評議会規程は宗規をもって定めている。宗制によって上任統理した「管長」は、昭和三七年四月「浄土門主」と改名、浄土門主は総本山の法統を伝承し、浄土宗教学の師表として本廟に奉仕するものとし、宗務総長の申達により儀式の主宰、宗義の裁定、教諭達示の公布、宗議会の招集および解散、宗議会議員選挙の発令、会計監査会の招集、宗務総長および役員の認証、僧侶分限の叙任および住職・主任・代務者の認証、褒賞に関する事項、檀信徒評議員の委嘱および檀信徒評議会の招集、その他必要と認める事項をその職務としており、門主のすべての行為、宗務責任については宗務総長が負うものとしている。浄土宗の教義に関する門主の諮問に答えるために、勧学寮(現・勧学職会議)が設置され、勧学寮は門主の諮問に答申するほか、宗務機関の要求に対して回答すること、宗務機関に対し適宜の処置を要求することなどを職務権限としている。その職務権限に属する事項について宗務機関から制約を受けることはなく、宗務機関の宗務執行に干渉してはならないこととしている。宗議会において議決する事項は、宗綱規則の変更ならびに宗綱規則に基づく規程の制定および変更に関する事項、予算に関する事項、基本財産の設定および変更、ならびに特別会計の設定に関する事項、宗教法人法第二三条各号に掲げる事項、不動産または財産目録に掲げる宝物以外の基本財産の処分または担保に供すること、重大な負担となる契約をすること、その他この規則に規定する事項および宗務総長が必要と認めた事項などである。宗議会は、宗務につき宗務総長に意見を具申することができ、この法人に包括される個人および団体から提出された建議および請願について審議する。檀信徒評議会は、本宗の教化、教勢の振興に関する門主の諮問に応ずるものであり、また門主に意見を具申することができる。浄土宗の宗務の厳正と宗内秩序は、監正審議会および会計監査会によってその維持をはかる。浄土宗の財務は、宗務機関の決定によりこれを処理するものとし、歳入、歳出のすべてを予算に編成し、宗議会の承認を得なければならないとしている。門主または宗務機関から発する通告は、教諭(門主が教旨にもとづいて発する文書)、達示(宗綱宗規則その他の規程の公布および規程の定めにより門主が発する通達)、宗令(宗務の施行上必要な事項について宗務総長が発する定め)、告示(宗務総長または宗務機関の発する通告)の四種に区分し、『宗報』に掲載して公示する。同四七年以降、宗務機関の細部については改正がなされているが、その梗概については大きな変更なく現在に至っている。
【執筆者:宇高良哲】
2浄土宗宗綱宗規に則って宗務を執行するための機関。浄土宗宗綱では、宗務を執行するための内局、地方の宗務を処理するための教区と海外における布教のための開教区、議決機関としての宗議会、宗義に関する浄土門主の諮問に答えるための勧学院、宗内秩序を乱す非違行為に対し懲戒処分を決定するための監正委員会、財務および業務を監査するための監査会、以上六機関を宗務機関としている。宗則(宗教法人「浄土宗」規則)では宗務機関の宗務執行方法が規定され、内局は宗務総長ならびに総務局・教学局・財務局・社会国際局・文化局の各局長、総長公室長および人権同和室長をもって組織することが定められている。また宗議会、監正委員会、監査会の組織および運営方法等が定められている。さらに宗務機関にかかる宗規として二二の規程、宗令、規則が定められ、前述の宗務機関に加え、研究機関として浄土宗総合研究所、その他として宗顧問会などを規定している。
【執筆者:今岡達雄】