念仏
提供: 新纂浄土宗大辞典
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ねんぶつ/念仏
仏を念ずること、憶念すること。仏の相好や功徳を心に想い念じることは、観念の念仏といい、仏教一般において重要な行法として展開する。浄土宗における念仏は、南無阿弥陀仏と六字の名号を声に称えることである。漢訳『無量寿経』で訳出される「一念」「十念」はすべて語源をⓈcitta(心)に置き、例えば梵本直訳で「たとえ十たび心を起こすことによってでも」は、第十八願で「乃至十念」と漢訳され、また、本願文に見られる他の用法を見ると、「澄浄な心をもってわたくしを随念するとして」(藤田宏達『梵文和訳 無量寿経・阿弥陀経』六二頁)とある。『観経』の下品下生の段には、「声をして絶えざらしめ、十念を具足して、南無阿弥陀仏と称す」(聖典一・三一二/浄全一・五〇)とあり、念を具足して称えるという。漢訳の第十八願について、道綽は『安楽集』上で「大経に曰く、もし衆生あって、たとい一生悪を造れども命終の時に臨んで、十念相続して我が名字を称せんに、もし生ぜずんば正覚をとらじ」(浄全一・六九三上/正蔵四七・一三下)として「十念相続して我が名字を称せん」と解している。善導は『観念法門』や『往生礼讃』において「我が名を称せんこと下十声に至る」(浄全四・二三三上/正蔵四七・二七上)、「名号を称すること、下十声一声等に至るまで」(浄全四・三五四下/正蔵四七・四三八下)と述べて、「念」を「声」とし、「心を起こす」や「随念する」という心的行為に留まらずに「声に出す」という口業として捉えている。
概して言えば、日本天台の教行としての念仏は、観想の念仏で仏・菩薩・浄土を想い観ることで、源信の『往生要集』では観勝称劣、すなわち、観察(想)念仏が勝れ称名念仏は劣るという論点がある。しかし、法然は『一枚起請文』のなかで「観念の念にもあらず」と強調し「ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して…知者の振る舞いをせずして、ただ一向に念仏すべし」(聖典四・二九九/昭法全四一六)と、往生行としての称名念仏を説く。これは、無観称名の念仏である。 『選択集』三の私釈では「問うて曰く、『経』に十念と云い『釈』に十声と云う。念声の義云何。答えて曰く、念声はこれ一なり。何を以てか知ることを得たる。『観経』の下品下生に云わく、〈声をして絶えざらしめ、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するが故に念念の中において八十億劫の生死の罪を除く〉と。今この文に依るに、声はこれ念なり、念はすなわちこれ声なること、その意明らけし」(聖典三・一二二/昭法全三二一)として念声是一の理解を打ち出し、本願文の「念」を「声」と受領すべきであるという。法然において念仏は声に称えることであり、さらにそれは『選択集』二で五種正行を規定する中での第四称名正行であり正定業なのである。また『常に仰せられける御詞』には「本願の念仏には、独り立ちをせさせて、助を差さぬなり。助というは、智恵をも助に差し、持戒をも助に差し、道心をも助に差し、慈悲をも助に差すなり。善人は善人ながら念仏し、悪人は悪人ながら念仏して、ただ生まれ付きのままにて念仏する人を、念仏に助差さぬとは言うなり」(聖典六・二八〇/昭法全四九三~四)とあるように、ひとりだちの行である。 『選択集』劈頭に「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為先」とある一四文字について、二祖聖光は『徹選択集』上で「『選択集』の題中に念仏と言うは、これ諸師所立の口称の念仏なり。故に題の次の行に南無阿弥陀仏と言うなり。第二に、本『選択集』の題の中に本願と言うは、これ善導所立の本願念仏なり。故に題の次の行に南無阿弥陀仏と言うなり。第三に、本『選択集』の題中に選択と言うは、これ然師所立の選択念仏なり。故に題の次に南無阿弥陀仏と言うなり。この故に、本『選択集』の題中に、三重念仏の義有りといえども、ともに観念の念仏には非ず。ただこれ口称の念仏なり」(聖典三・二五九/浄全七・八三下)と釈す。三祖良忠も『決疑鈔』一で「題下の念仏及び文中に勧むる所の念仏はともに是れ口称なることを顕す。此れすなわち観念に簡異して口称を表知す」(浄全七・一九〇上)という。このように、浄土宗における念仏は、南無阿弥陀仏と口の働き(口業)で称えることであり、しかも阿弥陀仏によって選択された本願の念仏なのである。
【参考】望月信亨『浄土教の起原及発達』(山喜房仏書林、一九七二)、荻原雲来『十念の研究』(『荻原雲来文集』同、一九七二)、藤田宏達『原始浄土思想の研究』(岩波書店、一九七〇)、同『浄土三部経の研究』(同、二〇〇七)、香川孝雄「称名思想の形成」(印仏研究一一—一、一九六三)、真野龍海「浄土教経典の文献学的研究—阿弥陀仏・称名について—」(『仏教文化研究』二一、一九七五)
【参照項目】➡念、念声是一、念仏為先、念仏為本、念仏と懺悔、念仏と成仏、念仏と報恩、称名念仏
【執筆者:藤本淨彦】