念
提供: 新纂浄土宗大辞典
ねん/念
記憶すること。念じること。あるいは時間の単位。称名念仏を説く浄土宗では念声是一といい、念と声は同義と解釈する。念と訳される語は種々あるが、重要なものにⓈsmṛtiⓈanusmṛtiⓈkṣaṇaがある。念には多くの意味があるが、おおよそ次の三つに区分することができる。①記憶。Ⓢsmṛtiの訳にあたる。『俱舎論』四では念を普遍的な心の働きとし、さらに「念は謂わく、縁において明記して忘れず」(正蔵二九・一九上)と述べ、念とは縁すなわち対象を忘れないこととする。また唯識学派では、『成唯識論』五に「曽習の境において心をして明記して忘れざらしむるを性となし、定の依たるを業となす」(正蔵三一・二八中)と述べ、念が記憶である点は『俱舎論』と同様であるが、普遍的な心の働きではなく、禅定と結びつく限定された心の働きと理解する。また念は信等の五根・五力・七覚支において、念根・念力・念覚支として組み込まれており、仏道実践の徳目とされている。②追憶、憶念。Ⓢanusmṛtiの訳で、随念などともいわれる。『阿弥陀経』に説かれる「念仏・念法・念僧」の念にあたり、対象をしっかりと念じ、心にとどめることである。仏・法・僧・戒・施(捨)・天の六つを念じる六念(六随念とも)は阿含より見られる修行法であり、この念とは仏・法・僧などの対象を念じ、しっかりと心にとどめる修行の一つである。またⓈmanasi√kṛという語も、これと同様の意味で用いられる場合がある。③時間の単位。Ⓢkṣaṇaの訳にあたり、刹那と同じ。極めて短い時間を意味する。また『往生論註』に「六十刹那を名づけて一念となす」(浄全一・二三六下/正蔵四〇・八三四下)とあるように、念と刹那を異なる時間とする説もある。どちらにしても時間の単位としての念は、極めて短い時間を指す。念には以上のような三義があるといえるが、浄土宗では『選択集』三によって念を声と同義とする。それゆえ念仏といえば、仏を憶念することではなく、仏の名を称えることを意味する。
【参考】藤田宏達『原始浄土思想の研究』(岩波書店、一九七〇)
【執筆者:石田一裕】