念仏と懺悔
提供: 新纂浄土宗大辞典
ねんぶつとさんげ/念仏と懺悔
願生者の浄土往生の行法として、念仏と懺悔が並説されることであり、また念仏と懺悔が滅罪という観点であい通じるということ。前者は、とくに善導が五部九巻の随所に示しており、『般舟讃』には、「手に香炉を執りて教えて懺悔せしめ 教えて合掌し弥陀を念ぜしむ」(浄全四・五四五上/正蔵四七・四五五中)と勧めている。後者は『観経』の下品下生などに説かれているごとく、口称の念仏には多劫にわたって生死輪廻するほどの大罪が滅除される功徳があり、この滅罪という観点から言えば懺悔と同じ功能があるということである。道綽も『安楽集』第一大門において、「計るに今時の衆生は即ち仏世を去りたまうて後の第四の五百年に当たれり。正しく是れ懺悔し修福して、応に仏の名号を称すべき時の者なり。もし一念阿弥陀仏を称すれば、即ち能く八十億劫生死の罪を除却す。一念既に爾り、況や常念を修するは即ち是れ恒懺悔の人なり」(浄全一・六七四上/正蔵四七・四中)と述べているように、前半は念仏と懺悔を並説しながらも、後半では両者に共通する滅罪の功能について示している。とくに後者について良忠は『決疑鈔』四で、「下根の行者のごときは、造罪やめがたしと雖も、因果を信じ深く悪業を恐れて一心に念仏すれば、またこれ懺悔なり」(浄全七・二九九下)と述べ、また『疑問抄』下に「一心専念の念仏者には、必ずしも、堅く懺悔の心を立つべからず。ただ平に称念すれば、自然に懺悔の徳を備える念仏なり。故に、あるいは〈念念称名常懺悔〉と云い、あるいは〈常に念仏する者は常懺悔人なり〉とも云う。何ぞ、自力修行の懺悔を以て、用て他力本願の懺悔を廃せんや」(聖典五・三五〇/浄全一〇・五〇上)と述べているように、専修念仏の行人は、ことさらに懺悔する必要はなく、仏の名を称えることでおのずから懺悔と同じ功徳(すなわち滅罪)がそなわるということである。これは念仏と懺悔が同じ行ということではなく、あくまでも念仏と懺悔には滅罪という共通の功能があるということである。なお、善導『般舟讃』にある「念念称名常懺悔」(浄全四・五三八下/正蔵四七・四五二中)を浄土宗では「念念の称名は常の懺悔なり」と読みならわしているが、善導の著作中にこれと同類の表現が見られないことや、善導はそもそも念仏とは別に懺悔を重視していることから、「念念に称名し常に懺悔す」とも読める。
【執筆者:齊藤隆信】