心
提供: 新纂浄土宗大辞典
しん/心
一
生命を構成する非物質的要素のうち、感官と対象の接触により起こる認識作用(心王)とその認識から生成される副次的諸相(心所または心数)の総称。Ⓢcitta。質多と音写される。集起の意で、普光『俱舎論記』四に「心力に由って心所及び事業等を集起す」(正蔵四一・八三中)とある。意、識と同じものを指す。またそのあり方、性質。われわれの認知する自己意識は、この刹那に消滅する心の連鎖であり、時間を縦断して常在する単一な自我、「私」ではない。心は、狭義には心王を指す。心王は対象の包括的な全体認知であり、善、染汚などの業論的質をもつ。これに従属した多様な精神的反応が心所であり、その従属関係を相応という。苦楽の感受や煩悩、三昧、信などの心所は、善不善などの心王の性質がその種類を限定する。心は口業、身業を導き、それ自体も行為(意業)としてその果報を生じる。直接間接にすべてが心に起因することを万法唯心といい、『六十華厳』一〇に「心は工画師の如く種種の五陰を画き、一切世界の中に法として造らざるなし」(正蔵九・四六五下)とある。心の清浄は仏教の要求する所で、『七仏通戒偈』に「自ら其の意を浄む、是れ諸仏の教なり」(正蔵二・五五一上など)とあり、また『無量寿経』にも「十方より来生せんもの、心悦清浄にして、すでに我が国に到らば、快楽安穏ならしめん」(聖典一・二二二/浄全一・五)とある。また本来心は清浄であるという自性清浄(Ⓢprakṛtipariśuddhi)の見方もあり、煩悩をまとった心のあり方を如来の胎児とする如来蔵思想につながる。『起信論』(正蔵三二・五七五下)では、衆生が客塵煩悩を取り除く成仏の過程である大乗(摩訶衍)とは、衆生心に他ならないと説く。仏道では禅定・三昧など精神の安定・集中を重んじるが、一方で制御の困難を指摘し、そのさまは意馬心猿と譬えられる。善導も『観経』をこの点から定散二善に判じ、法然は「いかでか凡夫の心に、散乱なき事候べき」(『要義問答』聖典四・一〇九/昭法全六二六)と述べ、散乱する心をもつ凡夫が往生するため、口称念仏を勧めた。また法相宗では特に第八阿頼耶識をいう。法相宗二祖の慧沼は心に四義ありとして、「一に真実を心と名く…彼を乾栗心と名く。二に縁慮心…彼を質多と名く。三に積集義…通じて能所もて積集する故に。四に積聚最勝義…即ち唯だ第八のみ」(『金光明最勝王経疏』二末、正蔵三九・二一八中)という。
【参考】仏教思想研究会編『心』(『仏教思想』九、平楽寺書店、一九八四)、勝又俊教『仏教における心識説の研究』(山喜房仏書林、一九六一)
【執筆者:小澤憲雄】
二
精神、心臓の意。またはすべてのものの本質や中心となる核心や心の中の、さらに中心となる部分のこと。ⓈhṛdやⓈhṛdayaの訳。汗栗駄・干栗多・乾栗陀、または訖利駄耶・纈哩駄耶と音写し、真実心・堅実心・肉団心と訳す。『翻訳名義集』六には、「汚栗駄。此の方は草木の心と称す。矣栗駄。此の方は積聚精要心と名づく。紇(胡結)利陀耶。此に肉団の心と云う。黄庭経の五蔵の論に明らかにする所なるが如し。正法念経に云く、心は蓮華の開合するが如し、提謂に云く、心は帝王の如し。皆肉団の心なり。色法の摂むるところなり」(正蔵五四・一一五二中)と説明している。サンスクリット語には、心に相当する語は多く存在するが、用法は一定していない。『リグ・ヴェーダ』においては、心臓を意味するⓈhṛdやⓈhṛdayaが同時に心を意味していた。仏教において、これは人間の内部に本来仏となるべき性質が蔵せられていることを象徴したものであり、如来蔵心のことである。智顗は、この心を「草木の心」と捉えている。『般若心経』の「心」とは、Ⓢhṛdayaの訳語であり、それは、般若皆空の心髄精要という意味である。密教では、これを八葉の心蓮華の姿に見る。これは心臓自体の形が八弁の肉葉からなると考えられているところから来ている。
【資料】『入楞伽経』一
【参考】仏教思想研究会編『心』(『仏教思想』九、平楽寺書店、一九八四)
【参照項目】➡如来蔵
【執筆者:薊法明】