極楽
提供: 新纂浄土宗大辞典
ごくらく/極楽
阿弥陀仏の仏国土の名。極楽世界、極楽国土、西方浄土などとも称す。原語はⓈsukhāvatīで、極楽の訳語は鳩摩羅什訳の『阿弥陀経』が最初であり、『観経』でも用いられている。『無量寿経』では「安楽」「安養」と訳されている。また、より成立の古い『大阿弥陀経』では「須摩提」、『平等覚経』では「須摩提」「須阿提」と訳されているが、これはⓈsukhāvatīの俗語形の音写とみられる。阿弥陀仏の仏国土の名称について『阿弥陀経』は「これより西方、十万億の仏土を過ぎて、世界あり。名づけて極楽という。その土に仏まします。阿弥陀と号したてまつる。今現にましまして説法したまう」(聖典一・三一六/浄全一・五二)とし、極楽の名の由来を「その国の衆生、衆もろの苦あることなく、ただ諸もろの楽のみを受く、故に極楽と名づく」(聖典一・三一六/浄全一・五二)と説く。『無量寿経』上では阿弥陀仏の前身である法蔵菩薩が四十八の誓願を建てたことを説き「法蔵菩薩、今すでに成仏して、現に西方にまします。ここを去ること十万億刹なり。その仏の世界を名づけて安楽という」(聖典一・二三六/浄全一・一二)とし、名称の由来については「三塗苦難の名あることなく、ただ自然快楽の音のみあり。この故に名づけて安楽という」(聖典一・二四三/浄全一・一六)と説く。いずれも極楽とは阿弥陀仏という仏の住する世界(Ⓢloka-dhātu)、もしくは仏国土(Ⓢbuddha-kṣetra)の名称であって、中国、日本では極楽浄土ともいう。また極楽の存在する位置については、釈尊が説法をしている娑婆世界の西方であり、その距離は十万億の諸仏の仏国土の彼方とされる。『観経』では「阿弥陀仏、ここを去ること遠からず」(聖典一・二九一/浄全一・三九)と説く。西方の理由を仏典は説かないが、道綽の『安楽集』下は「閻浮提には日の出ずる処をいいて生と名づけ、没する処を死と名づく。…この故に法蔵菩薩は願じて成仏し、西に在りて衆生を悲接す」(浄全一・七〇二下/正蔵四七・一八上)という。 『無量寿経』と『阿弥陀経』のサンスクリット本の経題はともにⓈSukhāvatī-vyūhaであり、それには極楽という仏国土に具わる功徳(Ⓢguṇa、特性)の荘厳(Ⓢvyūha、配列、厳飾)の意味がある。両経には極楽の荘厳が種々に説かれるが、世親の『往生論』には観察の対象としての極楽の荘厳を①仏国土の功徳荘厳(一七種)、②阿弥陀仏の功徳荘厳(八種)、③仏国土の諸菩薩の功徳荘厳(四種)(聖典一・三六二~八/浄全一・一九三~六)の三厳二十九種にまとめている。阿弥陀仏信仰による浄土教では、阿弥陀仏の極楽は来世に往生する仏国土であるが、『無量寿経』等では凡夫の往生が可能であり、世親の『往生論』では菩薩のみの往生が説かれる。それをめぐって中国、日本では阿弥陀仏の極楽について凡夫往生が可能か否かで説が分かれる。善導は凡夫往生を認める立場で、『観経疏』一に「正しく仏願に託して、以て強縁と作るに由って、五乗をして斉しく入らしむることを致す」(聖典二・一八六/浄全二・一二上)という。また極楽を三界を超過した仏国土とみなすか否かによっても往生人に対する説が分かれてくる。
【参考】望月信亨『浄土教の起原及発達』(共立社、一九三〇)、藤田宏達『原始浄土思想の研究』(岩波書店、一九七〇)
【執筆者:小澤憲珠】