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指方立相

提供: 新纂浄土宗大辞典

しほうりっそう/指方立相

阿弥陀仏により具現化された仏身および浄土有相が、釈尊により方角(西方)と相を通じて説示されたこと。善導が『観経疏定善義第八像想観釈において、『観経』の「是心作仏、是心是仏」の部分を解説する際に説示した「また今この観門等は、ただ方を指し相を立てて(指方立相)、心をとどめて境を取らしむ」(聖典二・二六九/浄全二・四七下)という一文が典拠であり、西方極楽世界有相を解説する最も重要な根拠となるとともに、古来、多くの議論が重ねられてきた。善導は『観経』第八像想観において説示されている「法界身」および「是心作仏、是心是仏」という経文の解釈から派生して、像想観さらには定善十三観をどのように解釈すべきかを議論している。ここで善導は「ある実践者は、この『観経』第八像想観に説示されている内容について、これを〈唯識法身之観〉として理解し、あるいは〈自性清浄仏性観〉として理解しているが、このことは大変な誤解である。この解釈は全くの誤りであり、少しも第八像想観に説示されている内容と相似するようなものではない」(趣意)と述べている。この「唯識法身之観」とは、阿梨耶識ありやしき依持説と如来蔵説を前提として「是心作仏、是心是仏」を理解したもので、如来蔵が顕現することにより法身が現成すると理解したものと考えられる。また「自性清浄仏性観」は『起信論』を典拠とした解釈で、「是心作仏、是心是仏」を衆生心であるとともに自性清浄心として理解する、いわば仏性の顕現を前提としたものと考えられる。

こうした理解に対して善導は「是心作仏、是心是仏」に関して、「〈是心作仏〉と言うは、自の信心に依って相を縁ずること作のごとし。〈是心是仏〉と言うは、心能く仏を想すれば、想に依って仏身現ず。すなわち、この心、仏なり。この心を離れて、外、更に異仏無ければなり」(聖典二・二六九/浄全二・四七下)と述べ、「是心」を「自らの信心」として解釈し、「是仏」を「仏、自らの影現」として理解したと考えられる。つまり善導衆生の願往生心という阿弥陀仏を想う心そのものを、衆生阿弥陀仏との接点であり、相互に知見する場所と捉えている。さらに善導は先述の批判理由について、「『観経』第八像想観において、先に仏の像を想うことを説示し、また阿弥陀仏三十二相を仮に立てることは、真如法界身凡夫が具体的な相を有するものと認識できず、また具体的な身を有するものと感知することができないということに起因している。そもそも、法身は色を有しておらず、凡夫の眼による認識対象ではなく、しかも何者にも比較の仕様がない存在である。それ故、虚空をもって、法身の体として比喩表現を用いる」(趣意)と説示している。その上で「また今この観門等は、ただ方を指し相を立てて、心をとどめて境を取らしむ」と述べ、「また、今、この『観経』第八像想観などの内容は、ただ、方向を指示し、具体的な相を立てることによって、心を阿弥陀仏の一箇所に留まらせ、阿弥陀仏を実際の認識対象として感知することのみを目的としており、決して、相が無い境界や念から離れた境界を明かすような内容ではない」(趣意)と説示している。すなわち、「唯、指方、立相、住心而取境」という一文は、釈尊西方を示し、その先に阿弥陀仏が自らの仏身と浄土の「相」を提示し、両者がそれぞれに、衆生が自らの視覚対象として阿弥陀仏および極楽浄土を具体的かつ実際に認識することが可能となるように、衆生に対して具体的な方向性と有相性を説示していると見られる。すなわち、善導指方立相説における仏と衆生との関係性を、「釈尊阿弥陀仏が共に衆生のために法門を開き、衆生は自らの心において阿弥陀仏に想いをける」と説示していると考えられる。つまり「指方立相」とは、『観経』において説示されている法門は、ただ釈尊により方角が指示され、阿弥陀仏により具現化されている仏身および浄土有相衆生に開示することのみを目的とし、未来世一切の凡夫を対象とした浄土法門の開示として捉えることができる所説である。


【参考】柴田泰山『善導教学の研究』(山喜房仏書林、二〇〇六)


【執筆者:柴田泰山】