「正定業・助業」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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しょうじょうごう・じょごう/正定業・助業
正定業とは極楽往生が正しく定まる行、もしくは阿弥陀仏によって正しく定められた行の意味で、具体的には称名念仏を指す。正定之業、正業とも呼ばれる。助業とはその称名念仏を助ける行のことで、助行ともいう。この両者を合わせて、正助二行もしくは助正と称する。善導が往生行を正行と雑行に分け、さらに正行には読誦・観察・礼拝・称名・讃歎供養の五種があるとする中、「この正の中に就いて、また二種有り。一には一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問わず、念念に捨てざる者、これを正定の業と名づく。かの仏の願に順ずるが故に。もし礼誦等に依るをば、すなわち名づけて助業とす」(聖典二・二九四/浄全二・五八下)と述べて、第四称名正行のみを正定業(正定の業)、それ以外の四つの行を助業と名付けたのに始まる。
正定業という言葉の意味について法然は『無量寿経釈』で「称名念仏はこれかの仏の本願の行なり。故にこれを修する者、かの仏願に乗じて必ず往生を得…故に念仏をもて正定の業とす…但し正定とは、法蔵菩薩二百一十億の諸仏の誓願海の中において、念仏往生の願を選定す。故に念仏をもて名づけて正定の業となす者なり」(昭法全八一)と述べる。この一節は広本『選択集』二でも用いられ(昭法全三五七)、良忠『決疑鈔』二(浄全七・二一六下~七上)でも引用されるが、良忠はこれを『東宗要』二において「定とは選定の義なり。選択広本に云く。念仏はこれ選定の法なるが故に定と云うなり…また定とは決定の義なり。選択に云く。念仏は決定、余行は不定なり」(浄全一一・四四上)と二義に解釈する。すなわち正定業には、阿弥陀仏が正しく選定した行の意味(選定の義)と、往生できることが正しく定まる行の意味(決定の義)との二義があるとする。この解釈はその後、良暁『選択決疑抄見聞』二(浄全七・七一七下~八上)、聖冏『釈浄土二蔵義』一六(浄全一二・一八六上)、同『糅鈔』四四(浄全三・九五一下~二下)でも用いられていることからわかるように、鎮西義の定説となった。特に『糅鈔』では、『俱舎論』一五(正蔵二九・八二中)で説かれる「定業をもたらす四因」に基づいて正定業を解釈しようとする「有る人」の説を批判し、当流では決定・選定の二義で解すべきであると述べている。
一方、助業に関しては歴史的な変遷がみられる。まず何が助業となるかについてであるが、善導は称名正行以外の四つの正行(前三後一)を助業とした。それに対し、法然は前三後一の行を同類の助業、源信『往生要集』の大文第五助念方法に示される方処供具などの七種の行、および『無量寿経』三輩段に説かれる念仏以外の行を異類の助業として、善導より助業を広く捉えている。また「衣食住の三は念仏の助業なり」(『禅勝房伝説の詞』聖典四・四八七/昭法全四六三)の一文からすれば、日常生活の諸要素も、念仏を助けるのであれば助業といえることになる。
次にいかなる意味で「助」となるかという点であるが、『往生要集』第五助念方法では「一目の羅、鳥を得ること能わず。万術をもって観念を助け、往生の大事を成ぜよ」(浄全一五・八八上)と述べ、その具体例として止悪修善や懺悔衆罪などを挙げていることからして、念仏(ここでは「観念」ではあるが)による往生を補助する意味での「助」とする。この場合、助業もわずかとはいえ、往生行となる。それに対し、法然は称名念仏だけで十分に往生は可能であり、むしろ他の行をまじえることは雑修となるので、かえって往生の妨げになるという。それは助業にも当てはまり、『無量寿経釈』で「助行なおこれを廃す。況や但諸行をや」(昭法全九一)と述べるとおりである。ところが、『選択集』四に至って、廃立義・助正義・傍正義の三義とも「一向念仏の為」(聖典三・一二八/昭法全三二四)と位置づけ、助業を認めるに至る。これは専修概念が後退したのではなく、むしろ助業概念が専修念仏と合致する形に変化したことを意味する。すなわち念仏だけでは少し不十分かもしれないので補助するという意味での助業から、念仏だけで十分ではあるが、その念仏行を増進させるための助業、念仏に対する側面支援としての助業へと転換したわけである。この新たな助業観は、例えば『同』四の「一向に念仏を修せんが為に、家を捨て欲を棄て沙門と作り」(聖典三・一二七/昭法全三二三)という文言によく現れているといえよう。この助業観に基づく場合、助業そのものは往生行とはならないことになる。
なお、聖光は『西宗要』二(浄全一〇・一六一下~二上)、『浄土宗名目問答』上(浄全一〇・三九七下~八上)などにおいて、念仏行を増進させるものとして助業を位置づけているのに対し、良忠は『決疑鈔』二(浄全七・二一八上)では聖光と同趣旨であるものの、『伝通記』散善義記一(浄全二・三八九下~九〇上)ではそれと並んで助業も決定往生の業となるとして、補助としての助業も合わせ説く。
一方、親鸞は助業には積極的には触れず、また言及する場合でも、助業をなす者を自力の人として否定的に捉えている(『一念多念文意』真宗聖典二・六一四)。証空は『観門要義鈔』散善義二において「正定業は弘願の体なり。亦これ所詮の法なり。助業は観門の意なり。弘願の念仏を助けて、これを成じこれを勧むる能詮の教えなる故なり」(仏全五五・三四〇下~一上)などと述べ、助業とは念仏(弘願)の真意を顕すところの定散諸善(観門)と定義する。なお、西山派西谷義では特異な解釈を行い、安心決定後に仏恩報謝として行う定散諸行を助業とする(浄音『西山口決伝密鈔』正蔵八三・四一六中、行観『浄土宗法門大図名目』正蔵八三・五一四上〜中)。
【参考】藤堂恭俊「五種正行論」「異類助成論」(同『法然上人研究』山喜房仏書林、一九八三)、安達俊英「法然上人における選択思想と助業観の展開」(『浄土宗学研究』一七、一九九一)
【参照項目】➡正行・雑行、五種正行、同類の助業・異類の助業、一心専念の文
【執筆者:安達俊英】