「阿弥陀堂」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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あみだどう/阿弥陀堂
一
阿弥陀仏を本尊として安置する仏堂のこと。もともと阿弥陀仏の浄土である極楽は、原意に「美しい風景」を含み、『阿弥陀経』に「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」と説かれるように色彩に富み、そのしつらえにあっても絢爛な空間構造をもち、光や水、植物、自然景観などを象徴的に援用して説示される。阿弥陀堂は、阿弥陀仏の極楽そのものを表現する場合、あるいは阿弥陀仏に対する行法を行う空間とする場合により、それぞれ様態が異なる。
[阿弥陀堂の歴史]
インドでは阿弥陀堂の痕跡は現時点では発掘されていない。
中国では、『梁高僧伝』に釈道安が丈六の金銅仏像を作り檀渓寺に安置したとあり、弟子の慧遠が影響をうけ廬山に東林寺を創建するきっかけとなり(『広弘明集』一五)、その般若台精舎が常行堂の最古とされる。道宣は、この仏像について『集神州三宝感通禄』中に、東晋・寧康三年(三七五)丈六の金銅無量寿仏の鋳造としている。これらが阿弥陀仏(無量寿如来)を単独、もしくは主尊とする堂宇であったのかは不明であるが、『梁高僧伝』一三、『法苑珠林』一五の長沙寺僧亮の記述や文帝(南宋、在位四二四—四五三)の光背寄進記述などにわかるように阿弥陀仏信仰は続き、慧思や智顗の常行三昧を修するための仏堂も広義には阿弥陀堂といえる。智顗は、慧遠の般舟三昧行を行法とし仏の周囲を巡る仏立三昧(常行三昧)によって見仏の境地に至ることを目的とするため、そのしつらえには立位による休息場を堂内に設けていた。それを学んだ最澄は日本に常行三昧の道場を導入していく。また、北魏にはじまる雲崗石窟や龍門石窟等の石窟寺院においても阿弥陀仏像が造立されている。雲崗石窟最大の第三窟(霊巌寺)は観音勢至を脇侍にもつ三尊形式であり、当初は石窟内に像を覆うように木室の仏堂があった。龍門では、第二〇、一〇四、一五九、五四三、七一二窟が阿弥陀仏であり北魏から唐代初期の造立で、いずれも当初は仏像を礼拝する堂宇に覆われていた。これらを広義の阿弥陀堂と捉えるかは別であるが、唐代の敦煌莫高窟では、第一七二、二二〇、三二一、三三二、四三一窟に阿弥陀浄土変相図や来迎図が描かれ、第四五、五七窟には彫像、麦積山石窟には唐代の阿弥陀三尊像が残り、阿弥陀仏や極楽のイメージを表現する志向は確認される。朝鮮(韓国)では浮石寺に顕宗七年(一〇一六)無量寿仏殿が建立され、一四世紀再建のものが韓国最古の木造建築(国宝第一八号)として残る。
日本では天平一三年(七四一)に東大寺阿弥陀堂が建立される。これが日本最初の阿弥陀堂であり、堂内には浄土変相図が懸けられていた。光明皇后は、聖武天皇四十九日忌に追善供養のため各地の大寺と国分寺・国分尼寺に丈六の阿弥陀仏像と阿弥陀浄土図の制作を命じている。国分寺は『法華経』に基づく鎮護国家を目的とした寺院ではあるが、光明皇后開基の国分尼寺法華寺には天平宝字四年(七六〇)園池を具えた阿弥陀浄土院が建てられ、翌年ここで光明皇后一周忌が行われ、同年以降国分寺は、本尊を阿弥陀如来としている。これは追善のための阿弥陀堂である。平安時代中期以降浄土教の流行により、多くの阿弥陀堂が建立されている。仁和四年(八八八)光孝天皇の追善供養のため阿弥陀三尊を本尊として仁和寺が建立される(「太政官符」)。本尊は、定印の阿弥陀仏像のなかで最古のものである。
天台宗では阿弥陀仏像の周りを念仏を称えながら回る般舟三昧行を背景として常行三昧堂の建立が広く行われる。これは円仁による比叡山東塔の常行三昧堂を嚆矢とするが、追善とは異なる自身の観想のための阿弥陀仏堂といえる。真言宗では、宝冠をかぶり体軀を紅色とした阿弥陀仏を本尊とする紅頗梨秘法という修法が一一世紀初頭以降広範に普及する。伝空海『無量寿如来供養作法次第』によるものであるが天台宗常行三昧堂本尊の影響をうけたものであり、阿弥陀仏本尊行法の台密東密の相互伝播を知ることができる。阿弥陀仏信仰の広範な普及においては、覚鑁『五輪九字明秘密釈』の「密蔵には大日即ち弥陀極楽の教主なり…一切如来は悉く是れ大日なり。毘盧と弥陀は同体の異名、極楽と密厳は名異にして一処なり」(正蔵七九・一一上)から知られるように、大日如来と阿弥陀仏の同体を学理として整備することにより造像や仏堂建立の裏付けとした。また重源などに代表される高野聖らにより、明遍建立の蓮華三昧院が阿弥陀三尊を本尊とし、重源は播磨浄土寺に代表される一間から三間四面の阿弥陀堂を記録上七寺建立するなど阿弥陀堂建立を行っている。
これらの堂宇は一定の形式をもち、常行堂形式は、小規模で単層宝形造り、堂内中央に須弥壇を配置し行道による囲繞を可能とし総板葺き四天柱、立位の休息場を設置する。概ね全国に残る持仏堂がこの形式である。折り上げ格天井で中央本尊への志向を明確にする。浄土堂とした場合、本尊は阿弥陀仏とは限らず独尊形式や三尊形式など多様である。周囲の扉には浄土変相図や来迎図などを描き、長押上の小壁などに散華を描画する場合もある。これらの扉は概ね蔀戸形式が多く、開放して周囲からの礼拝も可能にする。この形式に準ずる平安時代以前の現存する国宝建造物として兵庫県鶴林寺太子堂、大分県富貴寺大堂、福島県願成寺阿弥陀堂、国重要文化財では宮城県高蔵寺阿弥陀堂が残る。鎌倉時代では兵庫県小野市(播磨)浄土寺浄土堂、京都府(日野)法界寺、愛知県金蓮寺弥陀堂が残る。
こうしたものとは別に、九品になぞらえて堂宇を建立した九体阿弥陀堂がある。藤原道長によって現在の京都白川に寛仁四年(一〇二〇)から二年を掛けて造営された法成寺無量寿院に代表されるが、三〇年後焼失している。それぞれ丈六の阿弥陀仏を安置し東向きで南北九堂を並べるなど広大な寺域を必要とする。道長は臨終の際、九体の阿弥陀仏像それぞれから五色の糸を引いている。鎌倉時代まで三六堂の建立が確認され、現在一二世紀初頭の遺構として京都当尾(木津川市)浄瑠璃寺が唯一残るのみである。浄瑠璃寺は寄棟造りで中尊のみ髪際が丈六仏で残りの八軀は半丈六より少し小さい像高しかない。
次に、阿弥陀仏による極楽浄土そのものを空間的に再現した阿弥陀堂であるが、『観経』『阿弥陀経』の諸説を援用して日本独自に発展したものであり、京都府(宇治)平等院阿弥陀堂(俗称鳳凰堂)はその唯一の遺構である。阿弥陀仏独尊に特化した仏堂として、平安時代後期以降、鳳凰堂は他の阿弥陀堂の規範となり、かつ常行堂形式とは明らかに異なる要素をあわせ持っている。末法二年といわれる天喜元年(一〇五三)藤原頼通によって創建。園池の中心に左右の楼閣をもつ二重裳階の中堂に阿弥陀仏を安置した、浄土変相図等に記される阿弥陀仏の楼閣を模した建造物である。創建当初から、諸人来院の行実に「御感あり」というように拝観・来院自体、つまり感じる・観るという行為そのものが目的とされ、『後拾遺往生伝』の「極楽いぶかしくば、宇治の御寺を礼え」との記述はそれを裏付ける。
さらに発掘調査により判明した南東の花畑や「風流絶勝」の記録は、建立当時から自然空間に密接に関係して評される。頼通の息子である橘俊綱(一〇二八—一〇九四)撰『作庭記』には「乞わんに従う」と記述されるが、人智や作為を超え、庭石などすでに置くべきところに置かされているという考えは、借景概念が浄土教において軌を一にするものである証左とされる。近年では、創建者頼通の為政者としての境遇による徳政としての来世表示という指摘もある。外部ばかりではなく鳳凰堂内部では、反射性の高い鏡や最古の瑠璃ガラスによる透過性、彩色の鏡顔料粒の大きさから経時とともに表情を変えることによって極楽浄土を表現する技法も確認されている(詳細は「平等院」項目参照)。現存する最古の大和絵風来迎図や海への入り日が描かれる最古の日想観図、観無量寿経断簡として最古の色紙型などがあり、庭園・建築・彫刻・絵画など空間的、絵画的、文字的すべてにわたり阿弥陀浄土を希求した堂宇環境である。のち、鳥羽勝光明院や平泉無量光院などが平等院を模したとされるが、鳳凰堂の夕景が何ものも存在しない広大な空間に沈む夕陽であるのに対し、無量光院が鶏足山に沈む夕陽を背後に持つ点など明らかに空間認識に一線を画す。このように阿弥陀堂建立は、鳳凰堂の一部もしくは理念を設置地域に適合させて展開していった。【図版】巻末付録
【執筆者:神居文彰】
二
⇨瀧山寺(ろうさんじ)