「起行」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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− | [[阿弥陀仏]]の[[西方]][[極楽浄土]]へ[[往生]]することを願う者が[[阿弥陀仏]]の[[本願力]]を[[増上縁]](絶対的な間柄の働き)として、自らの身口意の[[三業]]において起こす行為を言う。心遣いの様相としての[[安心]]に対して身的行為のこと。『[[和語灯録日講私記]]』一では「喩えば清水へ参らんと思うは[[安心]]なり、一足一足行きて足を運ぶは[[起行]]なり」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J09_0687 浄全九・六八七下])と言われる。[[起行]]の用語は[[善導]]『[[往生礼讃]]』前序に「今、人を勧めて[[往生]]を欲せんには、未だ<ruby>若為<rt>いかんが</rt></ruby>[[安心]]し[[起行]]し[[作業]]して定んで彼の国に[[往生]]することを得るを知らず」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J04_0354 浄全四・三五四下])と見られるのが初出である。また『[[観経疏]]』[[定善]]義にも「[[衆生]]、行を起こして、口常に仏を称すれば、仏すなわち、これを聞きたまう。身常に仏を礼敬すれば、仏すなわち、これを見たまう。心常に仏を念ずれば、仏すなわち、これを知りたまう。[[衆生]]、仏を[[憶念]]すれば、仏また、[[衆生]]を[[憶念]]したまう。彼此の[[三業]]相い捨離せず。故に[[親縁]]と名づく」(聖典二・二七二~三/[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J02_0049 浄全二・四九上])と言い、「行を起こすこと」すなわち[[起行]]の用例を見てとることができる。さらに『同』[[散善]]義でも「<ruby>貪瞋邪偽奸詐百端<rt>とんじんじゃぎかんさひゃくたん</rt></ruby>にして、悪性<ruby>侵<rt>や</rt></ruby>め難く、事<ruby>蛇蝎<rt>だかつ</rt></ruby>に同じきは、[[三業]]を起こすといえども名づけて[[雑毒の善]]とし、また[[虚仮]]の行と名づく。真実の行と名づけず。もしかくのごときの[[安心]]・[[起行]]を作す者は、身心を苦励して、日夜十二時、急に走り急に作すこと、頭然を<ruby>灸<rt>すく</rt></ruby>うごとくなる者も、すべて[[雑毒の善]] | + | [[阿弥陀仏]]の[[西方]][[極楽浄土]]へ[[往生]]することを願う者が[[阿弥陀仏]]の[[本願力]]を[[増上縁]](絶対的な間柄の働き)として、自らの身口意の[[三業]]において起こす行為を言う。心遣いの様相としての[[安心]]に対して身的行為のこと。『[[和語灯録日講私記]]』一では「喩えば清水へ参らんと思うは[[安心]]なり、一足一足行きて足を運ぶは[[起行]]なり」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J09_0687 浄全九・六八七下])と言われる。[[起行]]の用語は[[善導]]『[[往生礼讃]]』前序に「今、人を勧めて[[往生]]を欲せんには、未だ<ruby>若為<rt>いかんが</rt></ruby>[[安心]]し[[起行]]し[[作業]]して定んで彼の国に[[往生]]することを得るを知らず」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J04_0354 浄全四・三五四下])と見られるのが初出である。また『[[観経疏]]』[[定善]]義にも「[[衆生]]、行を起こして、口常に仏を称すれば、仏すなわち、これを聞きたまう。身常に仏を礼敬すれば、仏すなわち、これを見たまう。心常に仏を念ずれば、仏すなわち、これを知りたまう。[[衆生]]、仏を[[憶念]]すれば、仏また、[[衆生]]を[[憶念]]したまう。彼此の[[三業]]相い捨離せず。故に[[親縁]]と名づく」(聖典二・二七二~三/[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J02_0049 浄全二・四九上])と言い、「行を起こすこと」すなわち[[起行]]の用例を見てとることができる。さらに『同』[[散善]]義でも「<ruby>貪瞋邪偽奸詐百端<rt>とんじんじゃぎかんさひゃくたん</rt></ruby>にして、悪性<ruby>侵<rt>や</rt></ruby>め難く、事<ruby>蛇蝎<rt>だかつ</rt></ruby>に同じきは、[[三業]]を起こすといえども名づけて[[雑毒の善]]とし、また[[虚仮]]の行と名づく。真実の行と名づけず。もしかくのごときの[[安心]]・[[起行]]を作す者は、身心を苦励して、日夜十二時、急に走り急に作すこと、頭然を<ruby>灸<rt>すく</rt></ruby>うごとくなる者も、すべて[[雑毒の善]]と名づく」(同二八八/[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J02_0055 同五五下])と言って、[[起行]]の語を用いている。 |
− | [[善導]]は『[[往生礼讃]]』前序で、[[安心]]を[[三心]]に、[[起行]]を[[五念門]]に、[[作業]]を[[四修]]にあてている。[[起行]]についての[[五念門]]は[[世親]]の『[[往生論]]』を受けて「一には[[身業]][[礼拝]]門…二には[[口業]][[讃歎]]門…三には[[意業]][[憶念]][[観察]]門…四には作願門…五には[[回向]]門」と説示され、続けて「一一の門、上の[[三心]]と合す。随って業行を起こせば、多少を問わず皆真実の業と名づく」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J04_0355 浄全四・三五五下])と述べる。[[礼拝]]・[[讃歎]]・[[観察]]の[[三門]]は身口[[意業]]において起こす行為、すなわち[[起行]]の[[三業]]であると言えるが、作願・[[回向]]の二門は、[[良忠]]の『[[往生礼讃私記]]』上では「自らの[[願生]]を以て作願と名づけ、兼済の辺を以て[[回向]] | + | [[善導]]は『[[往生礼讃]]』前序で、[[安心]]を[[三心]]に、[[起行]]を[[五念門]]に、[[作業]]を[[四修]]にあてている。[[起行]]についての[[五念門]]は[[世親]]の『[[往生論]]』を受けて「一には[[身業]][[礼拝]]門…二には[[口業]][[讃歎]]門…三には[[意業]][[憶念]][[観察]]門…四には作願門…五には[[回向]]門」と説示され、続けて「一一の門、上の[[三心]]と合す。随って業行を起こせば、多少を問わず皆真実の業と名づく」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J04_0355 浄全四・三五五下])と述べる。[[礼拝]]・[[讃歎]]・[[観察]]の[[三門]]は身口[[意業]]において起こす行為、すなわち[[起行]]の[[三業]]であると言えるが、作願・[[回向]]の二門は、[[良忠]]の『[[往生礼讃私記]]』上では「自らの[[願生]]を以て作願と名づけ、兼済の辺を以て[[回向]]と名づく」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J04_0381 同三八一下])、「比の二念を以て各[[生因]]と為す」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J04_0382 同三八二上])と別の視点から解明されている。『[[観経疏]]』[[散善]]義の[[深心]]釈においては、「行に就いて信を立つ」として「[[一心]]に専らこの『[[観経]]』『[[弥陀]]経』『[[無量寿経]]』等を[[読誦]]し、[[一心]]にかの国の二報[[荘厳]]を専注・思想・[[観察]]・[[憶念]]し、もし礼するには、すなわち[[一心]]に専らかの仏を礼し、もし口に称するには、すなわち[[一心]]に専らかの仏を称し、もし[[讃歎]][[供養]]するには、すなわち[[一心]]に専ら[[讃歎]][[供養]]す。これを名づけて正とす」(聖典二・二九四/[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J02_0058 浄全二・五八下])と言って[[五種正行]]が挙げられるが、これは先の[[五念門]]の「一には[[身業]][[礼拝]]門…二には[[口業]][[讃歎]]門…三には[[意業]][[憶念]][[観察]]門」([[起行]]の[[三業]])に[[読誦]]と[[称名]]と[[供養]]の三種を加えたものであることが分かる。そして同じく[[散善]]義では「この正の中に就いて、また二種有り。一には[[一心]]に専ら[[弥陀]]の[[名号]]を念じて[[行住坐臥]]に、時節の久近を問わず。念念に捨てざる者、これを正定の業と名づく。かの仏の願に順ずるが故に。もし礼誦等に依るをば、すなわち名づけて[[助業]]とす…もし前の正助二行を修すれば、心常に親近して、[[憶念]]断えざれば名づけて無間とす」(聖典二・二九四~五/[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J02_0058 浄全二・五八下])と言うように、第四番目の[[称名]][[正行]]を[[正定業]]とし他の四つの[[正行]]を[[助業]]とする。[[正定業]]である[[称名]][[正行]]は、[[阿弥陀仏]]が第十八[[念仏往生願]]に誓った[[浄土]][[往生]]の[[正因]]であるから「[[順彼仏願故]]」の[[行業]]とされる。この正助二行について[[法然]]は『[[無量寿経釈]]』で「[[念仏]]を以て名づけて正定の業と為するものなり。[[読誦]]等の行は即ち[[本願]][[選択]]の行に非ざるが故に、名づけて助と為す。[[念仏]]は亦是れ正中の正なり、[[読誦]]等は是れ正中の助なり。正助異なりと雖も、同じく[[弥陀]]に在るが故に正と為すといえども、然も[[勝劣の義]]無きには非ず」(昭法全八一)と言う。また、『[[選択集]]』二で「何が故ぞ、五種の中に独り[[称名念仏]]を以て、[[正定業]]と為するや」の問いに対して「彼の仏の願に順ずるが故に。意の云く、[[称名念仏]]は、これ彼の仏の[[本願]]の行なり。故にこれを修する者は、彼の仏の[[本願]]に乗じて必ず[[往生]]することを得るなり」(聖典三・一〇七/昭法全三一四)と答えている。 |
− | [[良忠]]は「[[起行]]の略説」ということを言う。『[[東宗要]]』四で「今、[[浄土宗]]に就いて最要の略説ありや。答う、之れ有り。[[安心]]の略説とは[[帰命]]の[[二字]]是れなり、即ち横の[[三心]]なり。[[起行]]の略説とは[[故の一字]]是れなり…[[故の一字]]とは[[順彼仏願故]]の故の字是れなり」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J11_0095 浄全一一・九五上])と述べ、「[[順彼仏願故]]」の[[故の一字]]が「[[起行]]の略説」であるとする。[[聖冏]]は「[[起行の一字]]」ということを言う。『<ruby>三六<rt>さぶろく</rt></ruby>通裏書』で「[[相伝]]に云う、[[浄土宗七字の口決]]とは、[[安心の二字]]、[[起行の一字]]、[[用心の四字]]なり。[[二字]]とは深信なり。一字とは故なり。四字とは[[念死念仏]]なり」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J12_0778 浄全一二・七七八上])と述べ、「[[順彼仏願故]]」の[[故の一字]]が[[起行の一字]]であるとする。さらに[[聖冏]]は「[[起行]]の[[一心]]」ということを言う。『[[銘心抄]]』上で「意に助けたまえと思って、口に[[南無阿弥陀仏]]と唱えて、他想無く、心々相続して、心、一境に住するを、[[起行]]の[[一心]]と名づく…[[起行]]の[[一心]]とは、これに付けて定散の異有り。定の[[一心]]とは、[[三昧]]と相応して、すべて縁慮を<ruby>息<rt>や</rt></ruby>めるを名づけて[[一心]]とす…[[散の一心]]とは、[[散善]]を行ずといえども、分に随って心を摂す。等持の分を以て名づけて[[一心]]とする」(聖典五・三八六/[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J10_0064 浄全一〇・六四下])と言う。[[源智]]は『[[選択要決]]』で、師[[法然]]の『[[選択集]]』への十非難の中で「六には此の集は且く[[起行]]の分際を明かして未だ[[安心]]門を述せず」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J07_0179 浄全七・一七九下])という非難に対して、「先師[[上人]]は自ら二河の浩波を渉り将に[[九品]]の[[彼岸]]に到らん。しかも大悲の心黙止することを得ず。事を[[有縁]]の仰望に託して、志を[[無縁]]の[[衆生]]に及ぼす。ここに此の書を撰集して[[専念]] | + | [[良忠]]は「[[起行]]の略説」ということを言う。『[[東宗要]]』四で「今、[[浄土宗]]に就いて最要の略説ありや。答う、之れ有り。[[安心]]の略説とは[[帰命]]の[[二字]]是れなり、即ち横の[[三心]]なり。[[起行]]の略説とは[[故の一字]]是れなり…[[故の一字]]とは[[順彼仏願故]]の故の字是れなり」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J11_0095 浄全一一・九五上])と述べ、「[[順彼仏願故]]」の[[故の一字]]が「[[起行]]の略説」であるとする。[[聖冏]]は「[[起行の一字]]」ということを言う。『<ruby>三六<rt>さぶろく</rt></ruby>通裏書』で「[[相伝]]に云う、[[浄土宗七字の口決]]とは、[[安心の二字]]、[[起行の一字]]、[[用心の四字]]なり。[[二字]]とは深信なり。一字とは故なり。四字とは[[念死念仏]]なり」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J12_0778 浄全一二・七七八上])と述べ、「[[順彼仏願故]]」の[[故の一字]]が[[起行の一字]]であるとする。さらに[[聖冏]]は「[[起行]]の[[一心]]」ということを言う。『[[銘心抄]]』上で「意に助けたまえと思って、口に[[南無阿弥陀仏]]と唱えて、他想無く、心々相続して、心、一境に住するを、[[起行]]の[[一心]]と名づく…[[起行]]の[[一心]]とは、これに付けて定散の異有り。定の[[一心]]とは、[[三昧]]と相応して、すべて縁慮を<ruby>息<rt>や</rt></ruby>めるを名づけて[[一心]]とす…[[散の一心]]とは、[[散善]]を行ずといえども、分に随って心を摂す。等持の分を以て名づけて[[一心]]とする」(聖典五・三八六/[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J10_0064 浄全一〇・六四下])と言う。[[源智]]は『[[選択要決]]』で、師[[法然]]の『[[選択集]]』への十非難の中で「六には此の集は且く[[起行]]の分際を明かして未だ[[安心]]門を述せず」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J07_0179 浄全七・一七九下])という非難に対して、「先師[[上人]]は自ら二河の浩波を渉り将に[[九品]]の[[彼岸]]に到らん。しかも大悲の心黙止することを得ず。事を[[有縁]]の仰望に託して、志を[[無縁]]の[[衆生]]に及ぼす。ここに此の書を撰集して[[専念]]の行を教う」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J07_0180 同一八〇下])と反駁し、『[[選択集]]』は[[衆生]]の「[[起行]]の分際」を明かしたものであると理解される。 |
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【参照項目】➡[[安心・起行・作業]]、[[五念門]]<span style="border: 1px solid;color: white;background-color: black;font-weight: bold;">一</span> | 【参照項目】➡[[安心・起行・作業]]、[[五念門]]<span style="border: 1px solid;color: white;background-color: black;font-weight: bold;">一</span> | ||
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【執筆者:藤本淨彦】 | 【執筆者:藤本淨彦】 |
2018年9月17日 (月) 01:17時点における最新版
きぎょう/起行
阿弥陀仏の西方極楽浄土へ往生することを願う者が阿弥陀仏の本願力を増上縁(絶対的な間柄の働き)として、自らの身口意の三業において起こす行為を言う。心遣いの様相としての安心に対して身的行為のこと。『和語灯録日講私記』一では「喩えば清水へ参らんと思うは安心なり、一足一足行きて足を運ぶは起行なり」(浄全九・六八七下)と言われる。起行の用語は善導『往生礼讃』前序に「今、人を勧めて往生を欲せんには、未だ若為安心し起行し作業して定んで彼の国に往生することを得るを知らず」(浄全四・三五四下)と見られるのが初出である。また『観経疏』定善義にも「衆生、行を起こして、口常に仏を称すれば、仏すなわち、これを聞きたまう。身常に仏を礼敬すれば、仏すなわち、これを見たまう。心常に仏を念ずれば、仏すなわち、これを知りたまう。衆生、仏を憶念すれば、仏また、衆生を憶念したまう。彼此の三業相い捨離せず。故に親縁と名づく」(聖典二・二七二~三/浄全二・四九上)と言い、「行を起こすこと」すなわち起行の用例を見てとることができる。さらに『同』散善義でも「貪瞋邪偽奸詐百端にして、悪性侵め難く、事蛇蝎に同じきは、三業を起こすといえども名づけて雑毒の善とし、また虚仮の行と名づく。真実の行と名づけず。もしかくのごときの安心・起行を作す者は、身心を苦励して、日夜十二時、急に走り急に作すこと、頭然を灸うごとくなる者も、すべて雑毒の善と名づく」(同二八八/同五五下)と言って、起行の語を用いている。
善導は『往生礼讃』前序で、安心を三心に、起行を五念門に、作業を四修にあてている。起行についての五念門は世親の『往生論』を受けて「一には身業礼拝門…二には口業讃歎門…三には意業憶念観察門…四には作願門…五には回向門」と説示され、続けて「一一の門、上の三心と合す。随って業行を起こせば、多少を問わず皆真実の業と名づく」(浄全四・三五五下)と述べる。礼拝・讃歎・観察の三門は身口意業において起こす行為、すなわち起行の三業であると言えるが、作願・回向の二門は、良忠の『往生礼讃私記』上では「自らの願生を以て作願と名づけ、兼済の辺を以て回向と名づく」(同三八一下)、「比の二念を以て各生因と為す」(同三八二上)と別の視点から解明されている。『観経疏』散善義の深心釈においては、「行に就いて信を立つ」として「一心に専らこの『観経』『弥陀経』『無量寿経』等を読誦し、一心にかの国の二報荘厳を専注・思想・観察・憶念し、もし礼するには、すなわち一心に専らかの仏を礼し、もし口に称するには、すなわち一心に専らかの仏を称し、もし讃歎供養するには、すなわち一心に専ら讃歎供養す。これを名づけて正とす」(聖典二・二九四/浄全二・五八下)と言って五種正行が挙げられるが、これは先の五念門の「一には身業礼拝門…二には口業讃歎門…三には意業憶念観察門」(起行の三業)に読誦と称名と供養の三種を加えたものであることが分かる。そして同じく散善義では「この正の中に就いて、また二種有り。一には一心に専ら弥陀の名号を念じて行住坐臥に、時節の久近を問わず。念念に捨てざる者、これを正定の業と名づく。かの仏の願に順ずるが故に。もし礼誦等に依るをば、すなわち名づけて助業とす…もし前の正助二行を修すれば、心常に親近して、憶念断えざれば名づけて無間とす」(聖典二・二九四~五/浄全二・五八下)と言うように、第四番目の称名正行を正定業とし他の四つの正行を助業とする。正定業である称名正行は、阿弥陀仏が第十八念仏往生願に誓った浄土往生の正因であるから「順彼仏願故」の行業とされる。この正助二行について法然は『無量寿経釈』で「念仏を以て名づけて正定の業と為するものなり。読誦等の行は即ち本願選択の行に非ざるが故に、名づけて助と為す。念仏は亦是れ正中の正なり、読誦等は是れ正中の助なり。正助異なりと雖も、同じく弥陀に在るが故に正と為すといえども、然も勝劣の義無きには非ず」(昭法全八一)と言う。また、『選択集』二で「何が故ぞ、五種の中に独り称名念仏を以て、正定業と為するや」の問いに対して「彼の仏の願に順ずるが故に。意の云く、称名念仏は、これ彼の仏の本願の行なり。故にこれを修する者は、彼の仏の本願に乗じて必ず往生することを得るなり」(聖典三・一〇七/昭法全三一四)と答えている。
良忠は「起行の略説」ということを言う。『東宗要』四で「今、浄土宗に就いて最要の略説ありや。答う、之れ有り。安心の略説とは帰命の二字是れなり、即ち横の三心なり。起行の略説とは故の一字是れなり…故の一字とは順彼仏願故の故の字是れなり」(浄全一一・九五上)と述べ、「順彼仏願故」の故の一字が「起行の略説」であるとする。聖冏は「起行の一字」ということを言う。『三六通裏書』で「相伝に云う、浄土宗七字の口決とは、安心の二字、起行の一字、用心の四字なり。二字とは深信なり。一字とは故なり。四字とは念死念仏なり」(浄全一二・七七八上)と述べ、「順彼仏願故」の故の一字が起行の一字であるとする。さらに聖冏は「起行の一心」ということを言う。『銘心抄』上で「意に助けたまえと思って、口に南無阿弥陀仏と唱えて、他想無く、心々相続して、心、一境に住するを、起行の一心と名づく…起行の一心とは、これに付けて定散の異有り。定の一心とは、三昧と相応して、すべて縁慮を息めるを名づけて一心とす…散の一心とは、散善を行ずといえども、分に随って心を摂す。等持の分を以て名づけて一心とする」(聖典五・三八六/浄全一〇・六四下)と言う。源智は『選択要決』で、師法然の『選択集』への十非難の中で「六には此の集は且く起行の分際を明かして未だ安心門を述せず」(浄全七・一七九下)という非難に対して、「先師上人は自ら二河の浩波を渉り将に九品の彼岸に到らん。しかも大悲の心黙止することを得ず。事を有縁の仰望に託して、志を無縁の衆生に及ぼす。ここに此の書を撰集して専念の行を教う」(同一八〇下)と反駁し、『選択集』は衆生の「起行の分際」を明かしたものであると理解される。
【執筆者:藤本淨彦】