五重相伝
提供: 新纂浄土宗大辞典
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目次
ごじゅうそうでん/五重相伝
聖冏が確立した宗脈と戒脈によって構成される浄土宗における伝法制度の、宗脈に関する総称。聖冏以来の浄土宗伝法の中核。利根川流域にあった天台宗の談義所における五重を、聖冏が浄土宗的に大きく改変したものと考えられる。
[聖冏の『五重指南目録』]
聖冏は『五重指南目録』を撰述して五重相伝を組織化し、いわゆる五十五箇条の伝目を制定した。初重は『往生記』を伝書として、四箇条と知残一箇条を相伝する。二重は『授手印』を伝書として、三七箇条と云残一箇条を相伝する。三重は『領解抄』を伝書として、一箇条と書残一箇条を相伝する。四重は『疑問抄』を伝書として、二箇条と云残一箇条を相伝する。第五重は『往生論註』の口授心伝の一節に基づいて、六箇条と書残一箇条を相伝する。内容的には各伝書とそれぞれの伝書に付随する諸伝目を通じて、初重では機(信機)を、二重では法(信法)を、三重では解を、四重では証を、第五重では信を相伝する。また加行期間は一一四日となっており、初七日は前加行であり六時礼讃・誦経・念仏などの実践を、次の七日が正行で三巻七書の講読ならびに五十箇条口伝の相伝を、次の百日で三経一論・善導「五部九巻」・曇鸞『往生論註』・道綽『安楽集』・法然『選択集』・聖光『西宗要』・良忠『東宗要』などの講読を、そして第百日成満日では正授戒と五箇口伝と璽書の相伝が行われた。聖冏が組織化および確立した五重相伝は、そのまま聖聡へと相伝され、聖聡から酉仰や慶竺や了暁などに相伝が行われた。
[音誉聖観の伝法改革]
酉仰の弟子である、増上寺三世の聖観は、応仁の乱という社会状況を反映し別行百日の前行は三経一論・善導「五部九巻」の講読を行うものとした上で、これを日常の学習に譲り省略した。そして初七日の前加行では礼拝・誦経・念仏などを実践し、後七日の正行では三巻七書講読ならびに五十箇条口伝の相伝を実施し、第七日成満日に五箇口伝の相伝を実施するという大幅な加行期間の短縮化を実行した。聖観以後、約一〇〇年間、貞把・存貞の箇条伝法化の時代まで、この形式で伝法が実施されることとなる。
[道誉貞把と感誉存貞の伝法改革]
聖冏が組織化および確立した五重相伝を、内容的に大きく改変したのが増上寺九世の道誉貞把と、増上寺一〇世の感誉存貞である。この両者は五重相伝の伝目を箇条伝法化するとともに、相伝内容を浅学相承と碩学相承に二分した。浅学相承とは、檀林において五年間の修学を経た浅学衆のための略式の伝法であり、期間を三七日(二一日間、初七日が前行、後二七日が正行)として、五重自証門の相伝を目的とした。箇条伝法の伝目は道誉流が五重五箇条あるいは八箇条、感誉流が五重九箇条となっていた。一方、碩学相承とは、浅学相承後にさらに相当年数(一五年間)修学した者を対象として、宗脈・円戒・璽書、つまり宗脈化他門の相伝を目的としたものであった。伝目は道誉流が宗脈一一箇条、感誉流が宗脈五箇条となっていた。この二師以外にも箇条伝法の作成が行われ、結果として各檀林内において独自の伝法が実施されることとなった。また道感二師は随時、大五重の実施も念頭においていた。
[近世の五重相伝]
近世になり元和式目が制定されると、諸事項が制度化されることとなり、この時点で伝法に関しても一応の成文化が行われるようになった。元和式目以後は、時代が進むにつれて修学期間が徐々に短縮されていった。また江戸初期には潮吞の「切紙」に基づいて増上寺の伝法が復興し、以後、関東を中心として伝法研究が進んでいくこととなる。江戸中期には伝法研究が盛んに行われるようになり、大五重の復興・浄土布薩戒の台頭・円戒研究の興隆・化他五重の開始もすべて近世の伝法研究を背景とする。また江戸時代は各檀林や諸碩学によって随意に箇条伝目の増減が行われる一方で、個々の伝目に関する研究も進められた。また各檀林が独自の伝目を作成しこれを相伝することで、自らの勢力の保持に努めた。
[明治以降の五重相伝]
明治維新により従来の伝法体制も一新された。明治七年(一八七四)九月、従来は関東十八檀林のみで行われていた伝法が、京都四箇本山でも行われることとなり、同時に増上寺が大本山となり遠江より東の浄土宗寺院の管轄を行うこととなる。明治九年三月、「鎮西派規則」により伝法に関する規定が成文化される。また明治九年から明治後期にかけて、東西を二分するほどの譜脈に関する大論争が始まる。明治二一年には福田行誡『伝語』が出版されるが、以後、行誡『伝語』をめぐる論争が繰り広げられることとなった。大正時代になってからも伝法に関する激しい論争が行われた。大正二年(一九一三)、伝法条例の改正が実施され、伝法道場は総本山または大本山とし、特別の慣例がある檀林に限り、特に伝宗伝戒を容認した。また期間については、伝宗伝戒の場合は約一ヶ月の前行と二週間の別行を、璽書の場合は二週間と制定し、この時に布薩全廃が決定した。その後も伝法制度は幾度も改正が行われた。昭和三六年(一九六一)の浄土宗合同に合わせて新たに宗綱宗規が制定され、さらに幾度か改定されつつ今日の箇条伝法を中心とした伝法構造に至っている。
[結縁(化他)五重]
在家を対象とした結縁(化他)五重は、大樹寺の愚底による松平親忠への相伝が嚆矢といわれている。近世初期は在家への結縁五重の実施は禁止されていたが、おそらくは各地で実質的に行われていた能化の養成に合わせて、結縁五重も実施されていたのであろう。近世末期には在禅や隆円によって結縁五重の伝書が作成されるなど、むしろ積極的な結縁五重の実施が見受けられ、現在でも近畿では「和泉五重」「大和五重」「近江五重」と呼称されるような各地の独自性を有した結縁五重が実施されている。また結縁五重では追善回向を目的とした「贈五重」も実施されている。
【参考】恵谷隆戒『浄土教の新研究』(山喜房仏書林、一九七六)
【参照項目】➡五十五箇条口伝
【執筆者:柴田泰山】