鎮西流
提供: 新纂浄土宗大辞典
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ちんぜいりゅう/鎮西流
法然の門下の中で聖光による門流。特に現在の浄土宗のこと。鎮西義または筑紫義ともいう。
[出典]
法然浄土教の分派について正嘉元年(一二五七)の『私聚百因縁集』七に「幸西(成覚一念義元祖)聖光(鎮西義元祖)隆寛(長楽寺多念義元祖)証空(善慧房西山義元祖)長西(九品寺之諸行本願義之元祖)」(仏全一四八・一一六下)とあり、すでに鎮西義の名がみえる。一方、日蓮の『一代五時図』(正元元年〔一二五九〕)には「第一弟子(長楽寺多念隆観)第一(コサカ善慧房)第一聖光(筑紫九国一切諸人)一条覚明(今ノ道阿弥等)成覚(一念)法本(一念)」(『日蓮聖人御遺文』)とあり、凝然の『源流章』(応長元年〔一三一一〕)には「幸西一念義、隆寛多念義、証空、聖光、長西」(浄全一五・五九一下~六〇一上)とあって鎮西義の名は見当たらない。また静見の『法水分流記』(永和四年〔一三七八〕)には「信空白河門徒、隆寛多念義(長楽寺義)、弁長鎮西義、幸西一念義、親鸞大谷門徒(一向宗)、湛空嵯峨門徒、証空西山義(小坂義)、源智紫野門徒、長西九品寺義(諸行本願義)」(『法然教団系譜選』青史出版、二〇〇四)とあり、鎮西義の名がみえる。このように鎮西義の名称は法然滅後の比較的早い時期から使われており、法然正流の聖光の流れを指し、現在の浄土宗のことを指す。
[聖光と良忠]
鎮西流の呼称は、聖光が九州の鎮西と呼ばれる久留米の大本山善導寺周辺で伝道したことによる。天台宝地房証真を師とした聖光は油山の総学頭となったが、建久八年(一一九七)再建された明星寺に安置する本尊を仏師康慶に依頼するため上洛したとき法然に出会った。三重の念仏のことを聞き、そのまま法然の弟子となり、翌々年には『選択集』が付属されている。聖光は『授手印』『浄土宗要集』(『西宗要』)『徹選択集』等を著し、法然浄土教の正義を伝えたが、この流れを鎮西義という。この名称は法然の弟子の諸派と区別するためにいわれるが、法然の正流の浄土宗のことである。『授手印』は、当時の法然門下が競って自流の正統性を述べ、論義に明け暮れていたのを嘆き、熊本白河の辺りで別時念仏を修し、師の教えは論義にあるのではなく、至心の称名にあることを示すために著された。聖光の本書に説かれる法然の教えの要点は、三心・五念門・四修・三種行儀がことごとく称名一行に結帰するという結帰一行三昧を説くところにあり、これを受けたのが島根石見の良忠であり、関東を中心に教えを伝えた。良忠は、聖光から受けた法然の宗義を宣揚するため、『浄土宗要集』(『東宗要』)『決疑鈔』『伝通記』ほか膨大な書を著し、鎮西義は良忠によって基礎づけられた。良忠の伝道により武士階級が多く帰依し、教線拡大にも大きな影響を与えた。千葉氏一族は大きな支えとなり、各地に教えを弘めることができた。聖光の教えを受け、良忠が伝えたのが現在の浄土宗であるが、二祖(善導・法然)三代(法然・聖光・良忠)の伝承を正流とし、法然の教えを聖光の著した『授手印』により相伝する門流を鎮西流と呼ぶ。
[良忠以降]
良忠からは多くの弟子が輩出し六派に分かれる。尊観の名越派、性心の藤田派、良暁の白旗派、然空の一条派、道光の三条派、慈心の木幡派の六派であり、前三派は関東の三派、後三派は京都三派である。このうち道光は『黒谷上人語灯録』(『漢語灯録』『和語灯録』)を編集し、法然の教えの正統性を示し、また聖光・良忠の伝記を著して鎮西流が正統を継ぐ流派であることを強調した。その後、三条派と木幡派は振るわなくなり、藤田派も名越派に吸収されることになる。六派のうち良暁は鎌倉坂下や相模国白旗等で弘法したので坂下義とも白旗派とも呼ばれ、やがて京都へ進出し、この流派が浄土宗の正統として位置づけられることになる。白旗派ははじめ振るわなかったようであるが、定慧・蓮勝・了実・聖冏・聖聡と継承され、とくに聖冏・聖聡によって教線が拡大した。
[聖冏と聖聡]
この二師は中興の祖といわれ、聖冏は『二蔵頌義』『顕浄土伝戒論』『教相十八通』等多くの著作により宗義を顕彰した。『二蔵頌義』により浄土宗の宗義を体系づけ、『顕浄土伝戒論』によって宗義のみならず戒脈の相承の意義づけをし、ここに宗戒両脈の相伝を位置づけた。伝宗は五重相伝の法であり、伝戒は専修念仏者における受戒を意義づけた。円戒は、信空・源智・隆寛・聖覚・聖光・証空・幸西・湛空・感西等に伝えられたが、『顕浄土伝戒論』により聖光が正流とされた。聖聡は聖冏の唱導した五重相伝を実践し、多くの弟子を育て教線拡大の基礎を築いた。聖聡の多くの門弟は江戸を中心に伝道したが、三河や京都にも進出し各地に教えを弘めた。
[江戸期から現代]
江戸初期になって増上寺の存応と知恩院の尊照が互いに協力し徳川氏との関係により近世浄土宗発展の基礎を築いた。この時期に新しく開創された寺院もあるが、中興という形で浄土宗寺院として再興された寺院も含め寺院数が増加した。江戸中期には徳川幕府の檀家制度のもと僧風の乱れが出たので粛正的な持律主義が各宗に出たが、一時的な運動に終わり、やがて仏教批判の廃仏が起き、明治維新となり近代化を余儀なくされた。直後、福田行誡により全仏教徒に対し近代社会における仏教界の方向性が示され、今日に至っている。
【参考】望月信亨『略述浄土教理史』(日本図書センター、一九七七)、玉山成元『中世浄土宗教団史の研究』(山喜房仏書林、一九八〇)
【参照項目】➡浄土宗、聖光、白旗派、藤田派、名越派、一条派、三条派、木幡派
【執筆者:福𠩤隆善】