「自力・他力」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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じりき・たりき/自力・他力
自力とは自らが実践する行のみを因(原因)として解脱し成仏を得ようとすることをいい、他力とは阿弥陀仏の救済の力によることをいう。他力と増上縁は同義語。自力・他力を浄土教の釈書に用いたのは曇鸞が最初で、『往生論註』下に「人三塗を畏るるが故に禁戒を受持す。禁戒を受持するが故によく禅定を修す。禅定を以ての故に神通を修習す。神通を以ての故によく四天下に遊ぶがごとき、かくのごとき等を名づけて自力となす。また劣夫驢に跨れどものぼらず、転輪王の行きに従えば、すなわち虚空に乗じて四天下に遊ぶに障礙するところ無きがごとき、かくのごとき等を名づけて他力とす」(浄全一・二五六上/正蔵四〇・八四四上)と比喩を用いて解説している。このような理解のもと、曇鸞は『往生論註』上の冒頭に、龍樹の行体としての難易説を継承して「五濁の世、無仏の時において、阿毘跋致を求めるを難とす」(浄全一・二一九上/正蔵四〇・八二六中)と述べている。ここで、煩悩にまみれ、仏のいない時代において成仏を求めることが難しい理由を挙げるなかで「ただ是れ自力にして他力の持なし」(同)と述べ、他力によっていないことを指摘している。
自力について法然は、『法性寺左京大夫の伯母なりける女房に遣わす御返事』に「我ら戒品の船筏も破れたれば生死の大海を渡るべき縁もそうらわず。智慧の光も曇りて生死の闇を照らし難ければ、聖道の得道にも漏れたる我らがために施したまう他力と申しそうろうは」(聖典四・五二一~二/昭法全五九〇)とあることから、自らの力によって三学を行ずることと理解していると推察される。また『浄土宗大意』に「聖道門というは、娑婆の得道なり、自力断惑出離生死の教なるがゆえに、凡夫のために修しがたし、行じがたし」(昭法全四七二)とあるように、自らの力によって断惑することとしている。すなわち自力とは聖道門における難行の実践であり、具体的には三学を行じて、惑を断って娑婆世界において成仏を得ることをいう。
他力について、曇鸞の教説をうけて道綽『安楽集』上には「ここに在りて心を起し、行を立てて浄土に生ぜんと願ず。これはこれ自力なり。命終のときに臨んで阿弥陀如来光台迎接して、ついに往生を得しむるを、即ち他力となす。故に大経に云く、十方の人天、我が国に生ぜんと欲する者は、皆阿弥陀如来の大願業力を以て増上縁となさずということなし」(浄全一・六九〇下~一上/正蔵四七・一二下)とある。さらに善導はこれをうけて、『観経疏』玄義分に、他力の語を用いていないものの「一切善悪の凡夫、生ずることを得ることは、皆阿弥陀仏の大願業力に乗じて、増上縁とせずということ莫し」(聖典二・一六二/浄全二・二上)とする。他力とは、このような如何なる凡夫も救済する阿弥陀仏の本願力をいう。法然は、『要義問答』に「我が力にて生死を離れん事励み難くして、ひとえに他力の弥陀の本願を憑むなり」(聖典四・三八二/昭法全六一九)とあるように、他力を阿弥陀仏の本願力として理解している。法然は一方で、『浄土宗略抄』に「他力といはただ仏の力を憑みたてまつるなり」(聖典四・三六四/昭法全六〇一)といい、『十二箇条問答』に「本願の不思議を疑わせたまうべからず。これを他力の往生とは申すなり」(聖典四・四四〇/昭法全六七三)というように、念仏行者が信仰の対象に対する心的態度を示す場合もある。
【参考】藤堂恭俊『法然上人研究』一(山喜房仏書林、一九八三)
【参照項目】➡難行道・易行道
【執筆者:石川琢道】