「光明会」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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こうみょうかい/光明会
山崎弁栄が主唱した如来光明主義を信奉する僧俗からなる信仰団体。(財)光明修養会の名称。弁栄は大正三年(一九一四)に『光明会趣意書』を印行頒布し、そのなかで「如来という唯一の大御親を信じ。其の慈悲と智慧との心的光明を獲得し。精神的に現世を通じて永遠の光明に入るの教団」と述べている。如来光明主義は「光明王を本尊とし。光明名号を称え、光明中に生活するを宗趣とす」(『光明の生活』五〇二頁)と表され、いわゆる所求・所帰・去行として言えば、所求(信仰の目的)については「みおやの光を得て光明の生活に入るを目的」とし、衆生の六根染汚・情の苦悩・知の無明・意の罪悪は「みおやの清浄と歓喜と智慧と不断の光明による摂化をこうむりて光明中の人となる。肉体ある間は精神的に光明中に生活」することを得るとともに「命終る時は現実的に光明土の人と為り得る、即ち浄土に生るることである」と、現世と来世の二世にわたることを指摘している。所帰(信仰の対象)については「弥陀尊は絶対的の中心本尊に在しまして、現在未来を通して唯一のみおやにましませば、無量無礙の光明を照らして、念仏の衆生を摂取」し、「如来は見と不見とに係わらず真正面に在ますことを信じて、その照鑑のもとに精神指導されつつあることを信ずべき」であると強調する。去行(信仰の実践)については、その弥陀本尊の「聖意にかない光明の中におさめらるる」ために「ただ本願の名号を称え、即ち念仏三昧をもってす」と言い、「見と不見とに係わらず一心に念仏して如来の慈悲に同化せられんことを要す」(以上、同書五〇一~二頁)と求めている。
信者(会員)は手首に一連の念珠をして『如来光明礼拝儀』によって仏壇前で朝夕の勤行を行う。念珠は明治四三年(一九一〇)に弁栄の発案した一連二二個の珠からなっていて、南無阿弥陀仏の要義を表し示したものである。すなわち、「南無は己れが一心を献げて帰命信順すること。阿弥陀仏は絶対的偉大なる力をもって救いたまう如来である」といわれを説き、念珠の「上の三顆は如来の三身(法・報・応)、次の小なる両方のは法身の一切知と一切能とにて、次の両方の六顆ずつは十二の光明、次の二つの小顆は報仏の慈悲と智慧とにて、下の三顆は衆生南無の三心、信と愛と欲との意味である。この一連に如来の聖心と衆生の心とが合一して救わるるわけを表したのである」(仏陀禅那欽言「念珠の説あかし」)と規定し、図を添えている。『如来光明礼拝儀』は晨朝と昏暮の礼拝から成っており、現行のものは内題に「如来光明の礼拝式」とある大正九年(一九二〇)の最終改訂によっており、弁栄の念仏体験にもとづいて創られた勤行式で、すべて和文体である。
近代という精神的時代の状況の下で、「行は念仏の一行、理解は十二の光明」という骨組みを通じ、朝は清々しい気分を「帰命・勧請・発願」に託し、暮の安穏を「感謝・懺悔・回向」の気分で迎えるという、日常の営みのなかで実践する工夫としての『礼拝儀』と弁栄の念仏体験の言葉によって、光明主義は伝統的な浄土教の内側から僧俗・宗派を問わず共感する人びとの輪が自然に発生し広がっていった。
大正七年(一九一八)に弁栄は時宗本山当麻山無量寺の境内に光明主義にもとづく教育機関を創設した。現在の光明学園相模原高等学校と幼稚園であり、弁栄を学祖とし創設の意図を実現する教育の場である。弁栄入滅後は、光明会本部を設置し遺弟高足を総監上首と仰ぎ組織化を進めた。昭和一八年(一九四三)に(財)光明修養会の設立認可を得て、組織的な充実を持続し今日に至っている。
弁栄の晩年の大正八年(一九一九)一一月に光明会機関誌「みおやのひかり」が発刊され、昭和九年(一九三四)一一月発刊の巻末に休刊宣言が記されているが、この復刻版は『ミオヤの光』縮刷版四巻で平成元年(一九八九)に発行されている。それ以後、『大光明』誌が、さらに昭和五〇年代からは『ひかり』という表題に変更して財団本部から月刊誌として発行されている。
【執筆者:藤本淨彦】